行為と妄想をかきのこしていくところ

心身の問題などに興味があります。「自分のこと」をことばで表現することで、こころのゆたかさをはぐくんでいます。このこころみのひとつひとつが、だれかのちからになっていたとしたら、とてもうれしいです。

日記。左側の首筋がいたい。落合博満にハマる。居酒屋での女性客との出会い。

日記。


①左側の首筋がいたい。

左側の首筋がいたい。昨日くらいから、いたみがでてきたけど、悪化したかもしれない。根をつめて、素振りをやってしまったためかもしれない。あきっぽくて、持続力はないのだけど、ハマると、一時的に熱心になってしまう性格が、わざわいした気がする。しばらくは、安静にしよう。ちなみに、この左側の首筋のいたみは、2、3年まえまで、慢性的にいたみがあって、ストレスの種だったものと、おなじ感じなので、ちょっと心身の感覚的に、不安がよぎっている。また、変に意識しすぎるのではないか?と。

落合博満にハマる。

とにかく、最近は、落合博満にハマっている。自伝を二冊購入したし、連続写真を収集したり、YouTube落合博満関係の動画をあさっている。そして、ついに、奥さんの落合信子の著書まで、かってしまった。Amazonでかったので、あさってくらいには、とどくだろう。落合博満ナルシシズムと変態性に、ちょっと、とりつかれた感じがある。落合博満のわらった表情が、特にすきなのだけど、その表情からもつたわってくる魅力の本質を、もうすこしさぐりたい。
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③串カツ屋での女性客との出会い。自然なきっかけの重要性。

昨日、9時半ころから、いきつけの串カツ屋さんで、お酒をのんだ。カウンターの一番手前の席にすわり、マスターとはなしながら、たのしんでいた。ほかの客が、二組ほどいたが、ぼくのとなり席は、あいていた。しばらくすると、わかい女性客がひとりではいってきた。マスターは、その女性をぼくのとなりの席に、すわらせた。ちょうどそのころあいで、ほかの二組がお勘定をすませて、店をでたので、店内はひろくなったが、手前側の端の席に、ぼくと、その女性がつめてすわる格好になった。

どうも、マスターは、この女性客とぼくとで、はなしをするきっかけをあたえたがっている感じがある。

この女性客は、以前から、何回か、みかけているが、この串カツ屋さんでは、女性客がひとりでくるのは割合めずらしいので、印象にのこっている。ひとりでくるお客といえば、あくのつよいおっちゃんばかりということもあり、また、そんなお店の空気のなか、自分の型をもったお酒ののみかたをしているので、雰囲気のある女性だという印象が、のこっている。

結局、この日、マスターが、サービスで、お酒の肴をだしてくれたことがきっかけで、はじめて、しゃべることになったのだけど、以前から、マスターは、そういうきっかけになるようなことを何度かしていた。こたえあわせは、していないし、しようともおもわないが、マスターには、粋なところが、多少あるので、うえのような思惑があることは、まちがいないとおもわれる。

それで、昨日のこの経験で、ちょっとおもしろいことに、気がついたのだ。自分の"らしさ"というものを、ちょっと鮮明に、みたような気がするのだ。

ぼくという人間は、「相手の領域に、自分から、ふみこんでいくこと」が、あまりすきではない人間かもしれない。受け身であったり、一歩ひいているようなかたちの方が、自分らしく、ふるまえる感じがある。自分を陰にし、相手を陽にして、相手をたてるくらいの位置関係にいる方が、気が楽だし、ちからが発揮できるような気がする。

昨日の経験では、相手の女性は、居酒屋などのカウンター席で、となりあった客と、はなしをすることになったのは、はじめてだといっていた。会話をするなかで、めんどくさがっている感じはなかったが、多少間がもたないような感じがあったのは、緊張していたためだろうか。

相手のかたのパーソナルなことをとやかくいいたいのではない。

昨日のあの時間、たのしかったのは、たしかだけど、めちゃくちゃ神経をつかって、気くばりをしていたので、すごく、つかれた。自分が主体となって、まわりに気をくばり、相手にきもちよく、しゃべらせることは、とても、たいへんなことだった。

原因は、わかっている。不自然さがあったのだ。

マスターの思惑に、ぼくは感づいていたことが、一番の不自然さだ(たとえ、まとはずれの、おもいこみだったとしても、意識してしまった時点で、このような状況では、これはすでに事実なのだ)。マスターの思惑に、気づいていたぼくとしては、マスターから、会話のきっかけが、あたえられたとき、あまり気がすすまなくても、会話をはじめて、話に、いくつかの花をさかせなければならない。マスターのはからいを、無視したり、だんまりしていては、ダメなのだ。これが、しんどかった。

自然なきっかけで、こころがうごいた瞬間をとらえてこそ、会話は、自然に発展していくのだ。自然に、話の花がさいてこそ、ぼくは自分の話を自由に展開していくし、相手の話をしっかりとききたくなるのだ。

自分としては、やや不自然さを感じていたので、意識的に、能動的にふるまわざるをえなくなったので、気分もなかなかのってこないし、とても、たちふるまいが、むずかしかった。らしくなくて、緊張もした。これだったら、よっぱらったおっさんのくだらない話に、適当に相づちをうっている方が、気はいくらか、やすまるといいたいくらいだ。

自然なきっかけをつくることは、むずかしいことなのだろうとおもう。

日記なので、これくらいで、まとまりなくおわるが、この日記のことばのはこびかたからは、落合博満がにおってくる気がする。あいかわらず、すぐに影響をうける人間だ。しかし、ひとの思想を理解しようとするなら、これくらい影響をうけやすい方が、かえって、都合がよい気もする。熱しやすく、さめやすいたちなので、泥沼にはまることもないだろうし、安心して、影響をうけていられる。