「暗中模索の自分さがしの物語」がおわり、「なにか風景がえがかれたキャンバスに、"自分"をえがいていく物語」がはじまった。

今日は、仕事がえりのバスと電車で、職場の哲学の先生といっしょになったので、いろいろはなすことができた。


ファシズムとか、ポピュリズムに、すこし関心があります。○○という本を今日、Amazonのオススメでみつけましたが、著者をご存じでしょうか?」と質問してみた。著者のことは、すぐにはおもいうかばないとのことだったが、「なぜ、そういうたぐいのことに関心があるのですか?」と問いかえしてきてくれた。たいへんたよりなくて、まとまりのない返答になったが、ことばをさがしながら、自分という存在のあやうさ、もろさ、うつろいやすさのことなどをはなした。


なにをどうはなして、どんなふうに、回答してもらえたのか、うまくおもいだせないので、キーワードだけ、かきのこしておこう。


ファシズム
ポピュリズム
情報を取捨選択し判断できない自分
判断する自信のなさ
集団や組織への埋没
自己主張する、自己主張しない・できない
社会というものが皮膚感覚でわからない
村上春樹
あだち充の『タッチ』の上杉達也
自分が野球をやりたい・すきだというより、関係性(朝倉南や上杉和也)のなかで野球をする
自我のもろさ
集団や組織のなかで「NO」をいいにくい空気とファシズムっぽさ


こんなテーマのことをひととおり、はなしおえたあと、先生から、「ドイツのナチスの時代のことに興味があって、すこし勉強したということだったら、フランクフルト学派を勉強してみるのはどうでしょう。権威主義的パーソナリティなどを勉強してみると、よいかもしれません。」と、おしえてもらった。

先生とわかれたあと、「権威主義的パーソナリティ」について、ググってみてから、一冊、新書をAmazonでポチった。ポチった本は、細見和之著『フランクフルト学派 -ホルクハイマー、アドルノから21世紀の「批判理論」へ 』(中公新書)。


そのあと、ひとりで、電車にゆられていたとき、ぼんやりと、つぎのようなことがおもいうかんできた。


去年の10月ころ、「NO」といいにくい空気が蔓延している集団(職場)のなかで、はっきりと「NO」と意見をいい、そして、「だから、ここに所属するのをやめる」と、はっきりと自己主張したことは、自分にとって、やっぱりターニングポイントといえるくらい、重要なことだった。「わたしは反権威主義である」という立場をはっきりと、しめしたともいえるとおもうが、これができたことで、自我が一本、しっかりとたったようにおもう。


この瞬間から、自分らしさがわかった感じがあったし、「自分という存在は、こうである」と、はっきといっていける感じをつかんだ。ふりかえってみると、おそらく、この瞬間から、「暗中模索の自分さがしの物語」がおわり、「なにか風景がえがかれたキャンバスに、"自分"をえがいていく物語」がはじまったのだとおもう。


最近、バットスイング(素振り)をしているだけで、とても人生が、たのしいのは、これはきっと、その行為が、「なにか風景がえがかれたキャンバスに、"自分"をえがいていく物語」の一部だからかもしれない。また、バットスイングをしているだけで、仲間がふえてくるし、仕事の調子も、すこしずつ、よくなってきているのも、もしかしたら、自分をえがいていく物語をいきはじめたからかもしれない。


ちなみに、余談だが、「なにか風景がえがかれたキャンバスに、"自分"をえがいていく物語」ということばは、自分で、いまつむぎだした。しかし、このことばは、今日、先生から、「自分という存在は、まったくなにもないところよりも、社会との関係性のなかからの方が、つかみやすいとは、やっぱりいえる。自我も、その方が安定しやすい。けど、そんなひとも、今回のコロナウイルスとか、震災があって、社会の根幹がゆらいだとき、自分という存在をみうしなう。震災のあと、いきかたをみつめなおしたひととか、やっぱりいるでしょう。」という話をきくことができたことが、きっかけで、無意識の底から、スーっとでてきたと理解している。