死と生のこと。

気もちよく泥酔するたびに、死の危険を感じながら、無意識の底にしずみたくない。いいかげんに、せんならん。お酒で、ふつうの社交をたのしめるようになりたい。もっというと、お酒なく、社交をたのしめるようになりたい。

お酒は神事ではない。なにごととも、つながってはいない。その気になるな。神とも、死の世界とも無縁なのだ、われわれの時代のお酒は。

もっと気楽に、酒によえぬか。




「背番号6」は、絶対に、死のことなど、ことばにしない。背番号6とは、落合博満のことである。

かれは、まようより、まず技術のことをかんがえる。

精神から、死の森にまよいこまず、まず自分の練習不足をふりかえり、技術のことをかんがえる。

ホームランをうつまで、死にきれん。
自分がいま、いきている理由とか、どうでもよい。
甲子園で、1本だけでも、ホームランをうつまで、死ぬことはできない。

どうやったら、ホームランをうてる思想に、たどりつけるのか。
明日もまた、バットをふりながら、かんがえるしかない。
おやすみなさい✨


おやすみなさい、とはいうものの、最後に、すこし、かんがえてしまう。死と生のことである。




変なひとと、おもわれてもよい。
はじめて、今日、共感してもらえたと実感したのだから。
これこそ、ぼくのリアルなのだとおもう。

だれかに、共感してほしいけれど、それが主たる目的ではない。
ずっと、死がちかくにあって、こわい。

自分をむなしくして、だまっていたら、死はちかくにいない。しかし、だまりつづけていたら、死はちかづいてくる。

酒だけが、唯一、死と、不安なく、ちかづき、対話することができるたすけなのだ。
少量の酒は、死と生と、対話させてくれる。

しかし、酒はしだいに度がすぎる。
そして、酒は、いつのまにか、牙をむく。

素人のくせに、ちから不足のくせに、そういう世界があることに、気がついてしまった。
死に、はむかえる論理も、感性ももたない、ヘボの素人が、その存在に気がついてしまったのだ。

その苦痛を、だれが理解してくれるのだろう。

死という、背負いきれないおもさに、ひとりでは、たえきれなくて、「しんどい」と、ひとこと、つぶやいても、だれも、そのことばをひろってはくれない。

「しんどい」のは、みんな、おなじだ、と、ひとはいう。

ぼくには、ちからがない。

だから、ぼくは、ぼくが気づいてしまった、そばにある、死のこわさを、だれかに、わかるように、ことばにすることができない。

そんなぼくの、ことばにならない、こま切れのことばのを、くみとり、解釈してくれるひとがいる。

論理をもたず、詩ももたず、絵も、歌も、もたない。

ふつうの人間なのだ、ぼくは。