技術を身につけるために、まもるべき原理原則は、「反復練習と復習」だ。【落合博満 技術論】

今日(といっても、記事をかいているうちに昨日になってしまったが)、仕事おわりに、バッティングセンターにいった。新型コロナウイルスに関していうと、このバッティングセンターは、野外であるし、今日はひとりも客がいなかったので、問題ないだろう。また、手洗い用の水道があり、石鹸もある。


今日のバッティングについて、技術的に、簡単に、ふりかえってみる。


機械から、ボールがはなたれる。自分にむかってきたボールをおいかけて、うつ。このかたちでは、ボールをうつことはできなかった。あたっても、それはまぐれだし、どんづまりの打球だった。このかたちは、要は、一般的に「あてにいく」というバッティングなのだ。


今日は、何度か、よいかたちで、うつことができた感触がある。理屈として、これはよいかたちだと納得できるものがあった。感触について、すこしふれる。毎日おこなっている素振りでは、理想のかたちをおいもとめている。その理想のかたちで、スイングできて、ボールがバットにあたったとき、スパーンと、よい打球がとんでいった。


理想のスイングについて、もうすこし丁寧に、ことばにしたい。


ボールがスパーンと、きれいに、とんでいくような理想のスイングができたとき、トップの位置から、ふりおろしたバットのミートポイントに、ちょうどボールがあったという感じがあった。さらに、もうすこし丁寧に表現すると、これは、つまり、なげはなたれたボールの軌道上に、ミートポイントをおいた(あるいは、さだめたという方がわかりやすいか)スイングができていた、ということなのだとおもう。


バッティングの技術に関する、今日の復習は、以上のとおりだ。だいたい毎日、こんな感じで、練習しているバッティングの技術について、ノートをとっている。手抜きをしているので、もうすこし表現は雑だが。


ところで、落合博満の『采配』という本の38ページからには、「明日の『予習』ではなく、今日経験したことの『復習』がすべて」という論考がある。落合自身が現役時代からもっていた、バッティングの技術を身につけるためのかんがえかたが、かかれている。そのかんがえかたとは、おおよそ「どんな仕事でも、ひとつの技術を身につけていく作業は地味で、相当の根気も必要になる。毎日、今日経験したことを復習し、何度も何度も反復練習し、コツコツをつみあげていくことによって、技術は習得することができる。」ということだ。


技術を身につけるには、反復練習あるのみなのだ。


ぼくが、バッティングの練習をはじめてから、いま2か月くらいたつ。ほとんど毎日、30分~1時間弱くらいは、なにかしらの練習はおこなっている。うえにかいているように、毎日復習をやっているし、毎日反復練習、つまり素振りをおこなっている。わずか2か月で、かつ一回30分~1時間程度の練習であるが、十分すぎるくらい上達している実感がある。これは、落合がとく、技術の習得に関する原理原則に、のっとっているからなのだとおもう。


このように、かんがえると、まえから、なげいている、「いつまでたっても、文章がうまくならない」ということの理由が、みえてくる。


文章をかくことも、梅棹忠夫が『知的生産の技術』で、論じたように、技術なのだ。ぼくは、量としては、文章を比較的たくさんかいているが、知的生産に関する“技術の原理原則”は、まもっていなかったのだ。復習もしていないし、反復練習もしていなかった。そもそも、反復練習するための「ひとつの型」すら、もつ努力をしていなかったのだ。


毎日おなじバットで素振りをするから、課題がみえてきて、修正したり、改善したりできるのだ。日によって、木製バットだったり、鉄の棒だったり、竹刀だったりするように文章をかいていては、上達するわけがないだろう。


以上。

采配

采配

  • 作者:落合博満
  • 発売日: 2011/11/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
知的生産の技術 (岩波新書)

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