文明と文化のちがい。それは、いっぺん技術論をとおってみて、わかってくる。【梅棹忠夫、石毛直道、落合博満】

技術と文明は、二重らせん構造のようである。ふたつは、対になっているところがある。そういうイメージをもつと、文明という、つかみどころのないものが、わかりやすくなった。


いま、石毛直道著『食事の文明論』をよみながら、文明と文化について、かんがえている。司馬遼太郎は、たしか、「文明は部分的に、または、そっくりそのまま移設できるが、文化はそれができない。」というようなことをいっていた。その意味が、いま、ぼんやりとわかってきた。移設できるのが文明で、それをできないのが文化なのである。


うろおぼえだが、「日本文明はあるか?」という問いをたてたのが、梅棹忠夫の『文明の生態史観』であったとおもう。日本は、西洋で発展した近代文明を模倣し、移設して近代化したというのが通説だが、日本には江戸期には近代の萌芽があったと、生態学の平行進化などを援用して論じ、それを批判した。ざっくりとしすぎているが、記憶をたどると、こんなことをいっていたとおもう。日本に文明があったかどうかや、独自の発展をとげたかどうかは、いまの主題ではない。文明のつかみどころのなさを確認するために、これをかいてみた。

文明の生態史観 (中公文庫)

文明の生態史観 (中公文庫)


ようは、文明はマネできて、文化はマネできないのである。文明を模倣し、移設したことによって、文化は変容するが、その逆はありえないのである。文化を模倣することはむずかしく、そして、部分的にでもとりいれることも、むずかしいのである。


皮膚感覚として、こういうことがわかってきた。これは、まちがいなく、冒頭にかいた「技術と文明は、二重らせん構造のようである」という感触をつかんだことによる。そして、なぜこのような感触をもつにいたったのかというと、これは落合博満の"技術"を2ヶ月以上、毎日模倣し、とりいれる努力をしつづけてきたからである。落合博満という人間の文化はとりいれられないが、落合博満という人間の技術はとりいれることができるのである。

落合博満 バッティングの理屈―――三冠王が考え抜いた「野球の基本」

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  • 作者:落合 博満
  • 発売日: 2015/07/03
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


なるほど、文明と文化を皮膚感覚で理解するためには、いっぺん技術論をとおらなければいけなかったのである。