今日は、X JAPANのHIDE、ソロミュージシャンのhideの命日だ。
hideのファンのひとは、hideのことをhideちゃんとよぶ。
ぼくも、したしみをこめて、hideちゃんとよぼう。
ところで、今日はめずらしく、このブログのアクセス数がのびている。
この記事が、よくよまれているみたいだ。松本裕士さんを検索したながれで、ひっかかってくれているみたいだ。
hideちゃんのファンたちが、おとずれてくれているのだとおもう。
そうおもうと、なんかちょっとうれしい。
ぼくは「hide」という人間のおかげで、前向きにいきるちからを手にいれた。
はじめて、ROCKET DIVEをきいたとき、前をむいて、一歩ふみだすちからが、ビックリするくらい、こころの奥から、わきあがってきた。
「どっちにしたって、なんにもないんだから、まよっているのなら、とにかくチャレンジだ。あとは野となれマウンテン。」
ぼくのhideちゃんとの出会いは、2018年だ。実際は、もうちょっとまえから、しってはいたけれど、熱心に、きくようになったのが2018年からなのだ。
かれがなくなってから、ずいぶんと時がたってからだった。
だけど、だからこそ、かれの声や音楽やことばには、普遍性があることを肌で感じている。
ぼくとhideちゃんとの出会いは、ちょうど没後20年のときで、記念コンサートがあって、そのとき、布袋寅泰さんがROCKET DIVEをうたっていたのが、とても印象的な絵として、記憶にのこっている。
ROCKET DIVEの布袋さんがカバーした曲調は、ちょっとせつない。
めちゃくちゃ元気がでて、勇気をふるいたたせてくれる歌詞なのに、布袋verは、ちょっとせつない。
なんか、そのせつなさに、hideという人間が、おおくのひとから、愛されているという真実をみた気がした。"布袋寅泰のhide"は、hideちゃんの死という事実がもつかなしみと、人間hideはいつまでも、ひとびとのこころにいきつづけているという愛を同時に表現している気がするから、なんだか、ちょっとせつないのだとおもう。
うまくいえんなあ。