運動は、心身だけでなく思考をきたえる。

運動という行為は、からだだけでなく、こころの鍛練でもある。そして、最終的には、シンプルな思考を身につける基礎にもなる。なぜ、シンプルな思考につながるのかというと、きたえあげられたこころは、なやみ、まようことがなくなり、ブレにくくなり、思考の邪魔をしなくなるからだ。


以下、今日の運動の日記である。
ぼくのからだと思考とこころのながれの記録である。


右うちで310回、左うちで50回、合計で360回、素振りをした。45分間、おこなった。その後、約5kmを26分かけて、はしった。


その日の体調にもよるのだろうが、よい感触で、素振りができない。きのう、おとといも、おなじように、しっくりこない感覚があった。職場に出勤するという生活が、すこしずつ、もどってきているために、その分だけ疲労がたまり、からだを満足にコントロールすることができないのかもしれない。


スイングを200回したときに、つぎのメモをのこしている。
「なんか、ただふっているだけに、なりつつある。からだもブレるし。」


また、250回目のあとには、こうもメモしている。
「一度、落合博満神主打法から、はなれよう。清原の一年目の腕の使い方、きれいだし、そっちの方が感覚的にあっているかもしれない。」


そのあとは、110回、スイングしたが、ほとんど、よい感覚はなかった。ずっと、からだが、いうことをきかない感じだった。とにかく、しんどかった。


ただ、希望はあった。最後の20回くらいになって、ようやく、よい感触があった。左足をふみこんだとき、タメをつくることが、もしかしたら、たいせつなのかもしれない。


しかし、やっぱり今日はダメだった。マメがつぶれて、いたくて、スイングすることができなくなったので、よい感触をたしかなものにするまえに、やめるしかなかった。


この程度で、ダメになる自分は、やっぱりまだまだだ。落合博満さんは、毎日、9時から17時で、トランジスタラジオをつくりながら、勤務終了後、22時まで練習をしていたというが、しんじられへん。やっぱり、すごい人間だ。めざすことは勝手だが、現実的でない目標をかかげていることに直面して、夢からさめてしまうと、おちこんでしまう。


とはいうものの、おちこんでいては、この"あそび"が、だいなしになってしまう。あそびの世界には、はじめから、意味などないのである。そうおもいなおして、はしることにした。


どうも、人間は、しんどいことから無意識的ににげるいきもののようにおもえる。というのも、素振りをしていると、下半身にちからがないことが原因で、からだがブレていることはわかるのだが、下半身をきたえることは、しんどいことだから、そこから目をそらして、たのしい素振りだけやって、よい気になっているふしがあるのだ。


はしることは、気もちがよかった。はしっていると、無分別の分別であること、つまり無心のようなところに精神をもっていくことができる。最近は、特に、そうだ。この状態になったとき、ものごとを先入観という色眼鏡なしで、シンプルにとらえることができる。