いじめがあって、学校にいくのが嫌なのだったら、積極的に不登校になればよい。道理ではないことを強要してくる同調圧力には、「にげる」という選択で、「賛成しない」ということをしめせばよい。

集団から、直接いじめられたこともあるし、ひとりに対して集団の側から直接いじめたこともあるし、集団のなかにうもれて無言でいじめに同調したこともある。そういう背景をもった人間として、いじめということについて、おもうことをつづっていく。。

 

朝日新聞の今朝の朝刊に、「学校再開、でも… 不登校児らに精神的負担感 『いつも以上に目配りを』」という記事があった。

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これをみて、「やっぱり学校になんか、いきたくないよなあ」と、痛切に感じた。

 

いじめられる側に本質的な問題があるのかどうかはわからないが、なぜいじめられるのかというと、いじめられる側の人間の態度のよわさを指摘することがあるようにおもう。「毅然とした態度でたちむかえ」、「これを試練だとおもって、のりこえよう」みたいなことをいじめられている人間にいう人間がいるとおもうが、これには疑問がある。集団対ひとりの力関係で、毅然とした態度でたたかうことなど、ほとんど無理な話ではないか。よほど頑強な精神力がなければ、ひとりで集団に、たちむかうことなどできないだろう。たしかに、毅然とした態度があれば、なめられることもなくなり、よって、いじめられることもなくなるだろうが、この時点でそれを指摘することは、まちがっている。かえって、「まけ根性」をうえつけることにもなりかねないとおもう。

 

集団に対して、ひとりで声をあげることは、至難のことだ。どこのだれが、100人の軍勢に対して、ひとりでいどめるだろうか。孫子の兵法じゃないが、「にげること」こそ、勝利なのだとおもう。だから、不登校という選択こそが、本来は毅然とした態度なのである。一歩だけ、勇気をだして、より毅然とした態度をとることができるのならば、「わたしは、いじめのある"集団の空気"が嫌なので、学校にはいきません。」と、堂々と主張して、不登校をきめこむことが、よいだろう。

 

つまり、ぼくとしては、日本のいじめ問題は、個人の問題として、とらえているかぎり、解決は困難であるようにおもうのだ。いじめは、集団の意識を変化させなければ、解決できない。

 

このあいだ、ニュースで、小学校教育関係者が、「コロナ禍で、体育の授業をできないのは、ダメージだ。たとえば、リレー走は、仲間と一致団結して、なにかをなしとげる達成感などをまなぶことができる。そういうことをまなべなくなるのは、ダメージだ。」みたいなことをいっていたのをみた。一致団結の達成感をあじわうことは、そりゃいいことだろうが、そんなことは体育に限らず、経験できることだろう。「みんなといっしょに、一致団結」という、反対側からみると同調圧力をうむような理屈を安直につかっていることに、気持ちのわるさを感じる。

 

いじめられる側の人間の精神的負担をケアしてあげることも大事なのだとはおもうが、おとなの仕事は、同調圧力のなか、「わたしは、それはちがうとおもいます」と、はっきりと表明することができる空気を醸成していくことだとおもうのだ。もちろん、「みんないっしょさ、仲間さ」という協調性もたいせつなのだが、それは、「しかしながら、わたしとあなたは、まったく別の存在だ」ということをはっきりと認識した上で、意味をもつものなのだとおもう。つまり、個人の尊重がないところに、本当の意味での協調性はないのだとおもう。

 

どうして、日本という社会では、「ちがう」という一言が、こんなにも、いいにくいのだろうか。