おじさん構文。自分の文章の基本がわかる。

ぼくのことばはこびは、「おじさん構文」だと、いいあらわしたひとがいる。とてもシンプルで、まとをいた表現だから、とてもうれしい。「おじさん」は、ぼくのアイデンティティにとって、核となるものなのだ。司馬遼太郎梅棹忠夫氷室京介、…、つよく影響をうけた人間はみんな、ぼくからみると、おじさんだ。



相手の背景にあるものを感じとるセンスと、それを相手が嫌な気にならないように、そして、ハッとなにかを気づかせるように、シンプルに表現できるセンスと技術があるひとには、とてもあこがれる。


日常の背後にあり、それをささえる陰の世界には、うえのようなひとが、割合おおくいる。ぼくは、かれらから、おおくの刺激をうけているし、これからも刺激をうけていたい。また、かれらの才能や技術、あるいは、かれらの存在そのものが、陰の世界で、日常のゆがみをささえることだけのために存在しなくてよいように、陽の目をみる機会などをつくっていくようなこともしていきたい。


陰の世界には、日常には、おさまりきらないゆたかさがある。陰の世界を、日常のおまけくらいのものだとかんがえるような、ぞんざいな態度でいては、いつまでたっても、ゆたかな社会はおとずれないだろうとおもう。


以上。


それにしても、たしかに、おじさん構文だ。自分のことを、他者から命名されたり、定義されると、客観的にみることができるということが、あたらしい発見だ。


自分の文体って、なんだろう?とか、おもうことがあっても、どんなだろうとイメージすることも、なかなかできなかったけれど、「おじさん構文」だといわれたら、なるほど、「ぼくの文章の基本は、おじさん構文だ」とイメージできて、すっきりした。