人間関係のこと。親であっても、他人は他人。

「あなたとわたしは、おなじではないのに、わかりあえる」から、気もちがいいのであって、「あなたとわたしは、おなじだから、わかりあえる」ということであっては、気もちがいいものではない。後者のような人間の特徴は、「おなじ」という輪から、はずれたものを排除する性質をもっているということである。ぼくは、そういう性質の存在はみとめるが、とにかく、キモいとおもうから、ちかづきたくないので、ゆるやかに距離をとって、すみわけることをめざす。


ぼくは前者のようなスタンスをとる人間だから、たとえ親であっても、他人であるとしている。他人であるといえども、いっしょにすごした時間のながさや、かかわりあいのふかさによって、愛情もうまれ、かけがえのない人間だと、おもうのである。けっして、血や家の論理で、この関係はなりたつものではないとしている。ひととひととのつながりは、関係のながさやふかさや質の総合として、あらわれてくるものなのである。これはぼくの性質である。


ところで、「あなたとわたしは、おなじだから、わかりあえる」とおもっているような人間は、うえのようなぼくの性質に対して、嫌悪感をいだくようである。この嫌悪感に、ぼくは排除の論理があることをみとめるのであるが、かれらは、素朴にそれを否定し、みとめようとしないのである。重要なのは、ぼくは、排除の論理をもつかれらの性質をちがうとはおもっても、その存在をみとめているが、かれらはぼくのような性質をみとめようとはしないことである。


心身二元論的な発想は、もう限界にきているのだとおもう。結局のところ、二元論では、排除の論理にいきつかざるをえないとおもうのだ。二元論では、たとえば、今西錦司などがいっている、「ふたつのものは、二にして一」というような仏教的発想を理解することができないから、否定する。否定するだけで、おわる。なんなら、「あいつは、とちくるって、とんでも科学にはしった」などという。ぼくは、これを非常に不健全なかんがえかただとおもっている。


話が余談にながれはじめた。


つまるところ、ぼくは、人間の関係性は、関係のながさやふかさや質に、距離感という係数をかけあわせたものの総合のようなものと、とらえているのである。前近代では、身分制度や家や土地からの拘束がつよかったため、この係数が固定的であったが、現代においては、流動的である。この係数が流動的であることによって、近代文明での人間関係は、バリエーションにとんだものになっているのである。このようにかんがえなければ、疎遠になっていた関係が、意外なことがきっかけに修復するということや、偶然であったふたりが恋愛するというようなことなどが、説明できないとおもう。


近代以降をいきるわたしたちは、実際のところは、ほとんど意識することなく、距離感という流動的な係数をかけて、他者との人間関係を構築しているのだが、前近代的身分制度や家族制度のなごりにとらわれ、それを意識しすぎることによって、「人間関係は固定的である」というおもいこみをかかえこんで、いきているのだろうとおもう。