三浦春馬の死をうけて。自殺したくなったら、とにかく、すべてなげだして、にげろ。

三浦春馬が自殺しましたが、それをうけて、責任感がつよいことは、あまりよくないことだとわかりました。


「ああ、自分は、もう死んでしまいそうだ」という信号をキャッチした瞬間に、それから、どこまでたえられるかを注視しつづける。「もう無理だ」とおもう二歩三歩、手まえで、すべて、なげすててしまう。そうやって、そのしんどさの根をたちきると、なんとかいきのびることができるとおもう。


死んでしまいたいほどのしんどさの根は、だいたい仕事か人間関係にある。命以上にたいせつなものはないのだから、死にたくなれば、その原因となっているものから、にげればよいのである。


この意味で、仕事なんか適当にやればいいとおもうし、人間関係もゆるく、ええ塩梅でつきあうくらいでよいとおもう。


死ぬまで、かかえこんで、なにかをやる必要なんかない。ひとりの人間の行為なんか、ほとんど無意味なのである。


「もう無理だ」とおもいはじめた瞬間から、かんがえるべきことは、いかにして、いまの状況から脱出するかであるが、その方法としてベストなのは、全部すてて、姿をくらますことである。私度僧的に、勝手に出家すればよいのである。


現代社会の仕事も人間関係も、全然、人間の生とむすびついたものではないのだから、適当にやればいいのである。人間の生とむすびついた仕事や人間関係であれば、自死しようなどとはおもわないはずである。




死とむきあうことは、たいせつなことであるが、死んでしまったら、どうしようもない。鈴木大拙の『仏教の大意』は、死にそうなひとが、いきはじめるために参考になる本である。

仏教の大意 (角川ソフィア文庫)

仏教の大意 (角川ソフィア文庫)