こころとからだのこと。スポーツ選手のメンタリティーからの、あるいは思想家としての落合博満からの影響。

こころのことをかんがえるうえで、スポーツ選手の意識のありかたは、参考になる。メンタルトレーニングみたいなものも、ずいぶんと浸透しているので、あたりまえの話とはおもうが、実際に経験した感触として、そうおもうのである。


ぼくが、からだをうごかすことに、こりはじめたのは、自分のこころのこととむきあう過程で、河合隼雄の本によって、竹内敏晴という人間にであったからである。竹内の思想を説明するには、ぼくはちからが不足しているが、ひとことでいってみると、それはつまり、「こころとからだは、二にして一である」というアプローチである。こころをいやしていくには、からだとのかかわりに着目する必要があるのである。


竹内敏晴の思想を実践するようになったのは、2年前のちょうどいまごろである。はじめは、からだとのかかわりをふかめていくといっても、はしることだけしか、していなかった。1年ほどたって、10kmもはしれるようになり、多少あきてきたところもあったので、バットをふることをとりいれはじめた。


なぜバットをふりはじめたのかという理由はわかる。野球がすきなのと、手もとにバットがあって、すぐにはじめることができたからだ。そして、こうやって、あらためて整理しようとすると、竹内敏晴の思想を実践している道中なのだということもわかる。


しかし、なぜ落合博満なのだろうか、ということは、いまいちわからない。世代的にいえば、イチロー松井秀喜であってもいいはずである。


ぼくは、おそらく、思想家「落合博満」に、ひかれているのである。記憶をたどれば、2003年秋の中日ドラゴンズ監督就任会見で、はじめて落合博満という人間をしったのであるが、そのときから、かれが野球人として何者であるかもわからずに、なんとなくすきだった。阪神タイガースファンなので、積極的には応援できなかったが、ずっとなにかを感じとっていた。


このようにかんがえると、はじめにかいた、「こころのことをかんがえるうえで、スポーツ選手の意識のありかたは、参考になる。」ということは、すこしいいかたをかえなければならないかもしれない。単に、ぼくが、思想家としての落合博満から、影響をうけているだけなのかもしれない。


最近になって、ぼくはつぎのような意識をもつことができるようになったのであるが、それがまさに、落合博満的なものなのである。


「2022年に、プロ野球選手になることをめざしている。

今年から、はじめたことなので、まず3年をひとつのくぎりとする。ふつうの野球選手たちであれば、高校3年間をへて、プロ野球のドラフトにかかるか、大学野球、社会人野球にすすむかという時間軸があるので、それを目安にしている。

プロ野球選手になろうが、なるまいが、ここでつみかさねたことは、絶対に自分を裏ぎることはないと確信している。まだ半年とすこししか、やっていないが、自分の人生にとって、かならず重要な経験になると、すでに手ごたえをつかみつつある。」


この話には、オチはないが、ひとつだけ感想をいっておきたい。


ぼくの精神はいま、非常に健康的になりつつあると実感している。これは、河合隼雄、竹内敏晴、落合博満のながれで、かれらの思想にふれて、それを実践していることの結果なのである。


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