実家暮らしでも、自立できる。一人暮らしをしたから、自立できるというわけではない。

実家ぐらしは、けっして親のすねかじりなどというネガティブなものではないとおもう。日本という風土の特性をかんがえると、しっかりと親との関係をつくって、実家ぐらしできるようになることにこそ、ただしく自立することができたといえるかたちがあるとおもう。



実家にいながら、半自活

仕事をおえてから、家にかえって、洗濯をする。夕食をたべたあとは、皿あらいをする。休日は、家の掃除をする。たまに、スーパーで食材をかって、夕食を自分でつくる。


これだけのことをやっておれば、すでに半分は自活していると、いえるのではないか。実家ずまいであろうが、ひとりぐらしであろうが、どっちでも、十分に、自分のちからで生活するという経験はつめることがわかってきた。


だいたい、ひとりぐらしというライフスタイルに対して、ぼくはそんなに関心がない。父親は、たいした人間ではなく、しゃべると9割が不愉快な人間なので、かれといっしょに生活することで、ストレスがたまるが、共同生活のおかげで、時間的にも、金銭的にもメリットがあるので、それもこみで、実家ぐらしは、積極的にアリだとおもっている。


また、実家ぐらしには、積極的にたのしいといえることもある。仕事をおえて、帰宅したあと、母親としゃべりながら、夕食をたべることは、たのしい。母親は、人間的におもしろいのである。これは、ひとりぐらしで、黙々とすごしているより、うんと、ゆたかな生活だろう。

地縁的なむすびつきと精神的な自立についておもうこと

人間の精神は、土地にむすびついているものではないし、同時に、土地におおきく影響をうけて、存在しているものだとおもう。人間の精神は、土地にむすびついているともいえるし、むすびついていないともいえる。つまり、そんなに簡単に、わりきれるものではないのである。


なにがいいたいかって、心身二元論はまちがっているということである。肉体と精神とが、別々に存在しているものだととらえていては、人間のことは、ほんとうにはわからない。


このようにかんがえるのは、実家にいながら、精神的にも、実際の生活としても、自立しはじめた経験にもとづいている。わざわざ家や土地とのつながりをたたなくても、人間は自立することができると、実感している。


ものの本によると、たとえばイギリスなどでは、高校生くらいから、子どもは親元をはなれて、寮生活をはじめる歴史があるという。これは自立のための訓練であるということだが、心身二元論の立場にたった発想であろう。ヨーロッパの人間にとっては、それが歴史的に、ちょうどよいということがわかった方法なのかもしれないが、日本では、あっていないだろうとおもう。


日本的風土で、うまれそだった人間は、土地とのつながりをたたなくても、自立できるのである。逆にいえば、土地とのつながりがなければ、自立できないともいえるのである。


ただでさえ、土地とのつながりが、希薄な現代社会なのに、無理やり努力して、ひとりぐらしなどをはじめて、自立した個人をもった人間がそだつわけはないだろうとおもう。


こころがやんだひとがおおいのは、このあたりに鍵があるとおもう。