枯れた芝生と雨ごいのこころ。芝生管理の仕事をとおして、宗教的な心情の起源をおもう。

雨の日は、じめじめするし、外へいくにも、ぬれてしまうことをかんがえるとおっくうになるから、あまりすきじゃない。だから、雨の日用の靴ももっていない。このようなふうにかんがえる人間だったが、生活がかわると、かんがえかたもかわることに気がついた。夕立があって、こころから、よろこべる日がくるなんて、おもいもよらなかった。

 


目次

 

芝生の管理に四苦八苦

きのう、夕立があって、とてもうれしかった。8月にはいって、日でりがつづいていたので、ひさしぶりの雨に、感謝した。

 

雨がふって、こんな気もちになったのは、はじめてである。ぼくは、基本的に、雨の日が、すきではない。

このような気もちになったのには、わけがある。

 

今年から、仕事で、芝生の管理を担当するようになった。芝生は水が不足し、乾燥すると、すぐにかれてしまう。ここのところの猛暑によって、梅雨があけ、あおくおいしげっていたの芝生が、部分的にだが、一気に、かれてしまったのである。

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こんなに一瞬で、かれてしまうとは、おもってもみなかったので、かなりあせった。さいわいにも、根はしんでいないようなので、水さえ、しっかりあげれば、復活する。

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このようなわけがあるから、雨がふって、とてもうれしいのである。

 

雨ごいのこころの経験から、宗教の起源をおもう

今回の経験から、雨ごいをするひとびとの感覚が、すこしわかった。そして、宗教的なこころの起源のことも、すこしわかったような気がする。

 

雨ごいという行為やその行為の核にある心情的なことは、人間が、栽培植物をそだてはじめてから、はじめて、うまれてきたようにおもう。狩猟採集の時代は、自然への畏怖心はあっても、いのりのようなことは、なかったのではないか。狩猟採集は人間の頭脳をもとに、戦略的におこなえるが、植物の栽培は、人間の手におえない部分が、その中心をしめている。

 

人間には、はじめは宗教はなかった。自然に余程ちかいピュアな感覚と鋭敏な頭脳とがあっただけなのだとおもう。はじめは、これだけをたよりにして、狩猟採集をおこなった。その後、栽培植物があることをしり、農耕という、自然をコントロールしようとする生活様式をつくった。このとき、うっかり自然から逸脱してしまったがために、自然とのピュアなつきあいかたをみうしなってしまった。その穴をうめるために、宗教というものを鋭敏な頭脳で、かんがえだしたのである。

 

たぶん、ある集団ごとに、ひとりか、数人のかしこが、宗教的なかんがえかたや行為をかんがえだしたのだとおもう。それがたとえば、雨ごいである。だれかが雨ごいをはじめたら、雨がふった。それをみたひとが、「これはすごいぞ!これで、オイラたちは、しあわせになれる!」とおどろき、それがしだいに伝播していった。

 

 

梅棹忠夫の「日本人の宗教」

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