ずっとほしかったエロ本を手にいれた。
インターネットで、根気よくさがしていたら、運よくヤフオクで出品されているのを発見した。発見した瞬間は、おもわず「やった」と声をだしてしまいそうになるほど、うれしかった。すぐさま入札し、無事、落札することができた。
このエロ本は、小学生のころに、はじめてみたものであり、また精通してからは、アダルトビデオをみはじめるまでのあいだ、ずっと利用していた、いわゆるオカズなのである。つまり、このエロ本は、ぼくという人間の歴史にとって、性のめざめをもたらしたものであり、異性の裸をはじめてみたという経験であり、そして、思春期の原体験であるという、記念碑的なものなのである。にもかかわらず、うっかりすててしまったのである。
えらいおおげさなことをいっているが、これはけっこうたいせつなことだとおもっている。だからこそ、ある種、ちまなこになって、いろんなキーワードを検索して、さがしあてたのである。インターネットが発達した、いまの時代にいきるわかものは、このような経験をすることができるのだろうか。おとなになってから、ちまなこになって、インターネットで検索し、オークションで落札までして、手にいれたくなるほどのエロとのかかわりあいができるのだろうか。
スマートフォンさえあれば、いつでも、どこでも、エロに接続することができる。しかし、スマホでかかわるエロは、単に消費されるだけのものになりさがっている。消費されるだけのエロには、異性の肌への神秘的なあこがれは、おこりようがない。それでは、おとなになったとき、記念碑的なものになる余地はないだろう。
スマホだけを断罪するようであるが、わるいのはスマホだけではない。いまは、エロ本そのものが、堕落している。いまのエロ本は、単なるAVのきりぬきであり、消費されるだけのものへと、みずからなりさがってしまっているのである。こんなものに、性をめざめさせるような、記念碑的な価値はない。
エロ表現を衰退させることは、よくない。エロが消費されるだけのものになりさがってしまうと、性暴力がおきてしまうと、ぼくはおもっている。消費文化というものは、基本的には、大量に生産し、つかいすてていく文化だからである。