ひとは、表と裏の二面性があって、あたりまえ。

ひとには表と裏がある。ぼくはそれをかくしたいとはおもわない。かくしているひとがおおいから、社会が分断されているのだとさえおもう。


表が正義で、裏が悪であるかは、わからない。しかし、この世のなかでは、"だれかの価値基準"で、表は善玉あつかいされ、裏は悪玉あつかいされている。この価値基準から、ぼくは飛躍したい。


人間が古来から、コツコツとつみかさねてきた"ただしさ"は、まちがいなくあるとおもう。しかし、それは、無批判にうけいれるものではないはずだ。まずは、たとえ"まちがっている"ことだとしても、「俺は、ただしい。俺は俺さ。」というところから、ただしさははじまるのだとおもう。「俺は、ただしい」が、まちがっていたら、その都度修正していく。このプロセスのなかに、ほんとうのただしさがあるはずだ。


このかんがえを検証していくために、ぼくはFacebookTwitterなど、snsをつかっている。インターネット世界に、自己を存在させるといういとなみは、もはやきってもきれない時代になっていく。そうであるならば、積極的に、つかっていくより、よい案はない。


リアルとインターネットで、表と裏の自己を表現していく。これをつみかさねていく。このさきには、たぶん、肉体と精神が、あるいは物体と情報が、統合された世界があるはずだ。


それには、実名でやることがベストだとおもう。匿名で、裏か、表かを表現していくと、しらないうちに、べつの自我がそだっていくようにおもう。これでは、統合ではなく、分断にむかっていく。司馬遼太郎ですら、福田定一司馬遼太郎とを統合しきれていないような感じがあるのだから、平凡なわれわれは、不用意にアカウント名をもって、インターネット世界で自我をふくらませていくことは危険だろう。