野球で身につけた「孫子の兵法」で、クレーマー対応

何日かまえの仕事だけど、クレーマー対応としては100点のたちふるまいができたとおもう。おとなになった。うりことばに、かいことば的に論破してやろうととか、一切おもわなかった。ただただ冷静に、相手を観察していた。たとえるなら、全部ボールをみきわめていたけれど、あえて見逃し三振をしたという感じだ。オープン戦で、かつファームの試合は、これみよがしにバットをふるような場所じゃない。そういう余裕があった。


勝負勘がつかめてきたのだろうし、勝負なれしてきたのだろうとおもう。感情的になったクレーマーの威圧感に、はじめはやや気圧されたけど、それは感情のスイッチをいれていない状態であれば、あたりまえのことだ。真正面から、それをうけとめずに、半身になって、うまくうけながせた。真剣勝負のバッターボックスで、脚のふるえを感じたことの方が、何倍もタフな経験だったとおもう。あれこそ勝負の場で、まけていたのだろうとおもう。


それで、うまくクレーマー対応できたことに、やや興奮しているのが、いまのぼくの状態だ。勝負の場で、たたかわずして、かつことができたことで、武者ぶるいしているような感じだ。


あとひとつ、自分自身にたいして、ほめてあげたくなるくらい、うれしかったことがある。それは、もしそのクレーマーが、いかりにまかせて、個人の容姿やかんがえかたなどを攻撃してきた場合は、しっかり刀をぬく準備をととのえることができていたことだ。「いまの時代、そういうのはあかんとおもいますよ。話がかわりますよ、いいんですね。」と。


いつでも刀をぬく準備、つまり、たたかう準備をしていて、それでいて、たたかわず撤退して、勝利するというのが、孫子の兵法の本質なのではないかとおもった。たたかうことは、まったくムダなことだと、ぼくはおもっているのだけれど、たたかわないためには、たたかうこころがまえをしっかりと腹のなかで、ねっておかなければいけないのかもしれない。勝負勘というか、こういう感覚はもっておきたかったので、それを手にいれることができただけで、野球をやった甲斐があったとおもう。


とにもかくにも、論争がいかにムダであるのかが納得できる経験をした。みのりのある経験であった。