Queen『The Show Must Go On』から感じたこと

なんでも俄にハマっちゃう人間なので、Queenにちょっとハマってしまってて、フレディ・マーキュリーという人間をもうちょっとふかくしりたい欲求がフツフツとわきあがってきている。それでQueenの曲をYouTubeで適当にあさっているわけですが、この「The Show Must Go On」という曲のLIVE映像(※追記、楽曲の時系列をしらべたら、この曲はLIVEで演奏したことはないようだ。よくみたら、YouTubeの説明欄にも英語で「もし〜」とかいていた)がこころをゆさぶってきまくってて、何度もみかえしている。

 

https://youtu.be/36ncula-IDw

 

この映像のフレディ・マーキュリーの雰囲気がどこか神々しい。歌詞はきいただけではサッパリわからないが、そんなことはどうでもよくて、フレディ・マーキュリーのたましいのさけびがきこえてくるようだ。曲の壮大な雰囲気もあわさって、そう感じる。

 

この感じは、hideにも感じたものだ。"不幸な"死という結果に類似をみいだすぼくの感じかたが、そうさせるのかもしれない。「いきよう」という正のエネルギーと「死にむかっている」という負のエネルギーが、ひとりの人間のからだでうずまいているように感じる。

 

しかし、この感じかたはまちがっている気もする。

 

なんというか、うまくいえないな。結果的に死という行為がうまれたわけだ。自分という存在のあいまいさとむきあうなかで。カミュのいうように、不条理から解放されるために、「この世界を主体的に解釈して」いくなかで、その綱渡りのなかで、ふいに死がおとずれたというか。

 

フレディ・マーキュリーとかhideのことをかたりたいのではなくて、自分の存在をふりかえっている。

 

充実しているのに、ふとした瞬間自殺的な衝動にかられる。心理的に、そういうことのくりかえしで、躁鬱のように、周期的にそれがおそってくる。まさに不条理のなかでいきているんだと俯瞰すると、そんな気がする。いっそかんがえることを放棄しようとおもうが、これはできない。宗教をしんじるようなことで、これは哲学的自殺だとカミュはしりぞけたらしいが、そのようにおもう。

 

探検家の角幡唯介は「脱システムのなかをいきている」ということをいつだったかの朝日新聞のインタビュー記事でみた。どういう話だったかほとんどわすれたが、脱システムということばがすごくあたまにのこっている。

 

人間は概念をつくりだして、システムを構築して、無秩序な人間をかいならしてきた。この概念やシステムが人間を抑圧している気がする。生身の無秩序な人間と概念やシステムに家畜化された人間が、「このわたし」という存在のなかに混在している。ここに不条理がうまれているような気がする。一度脱システムして、自分のなかにある無秩序で凶暴な人間の本性をまざまざとみて、うけいれるところから、なにかがはじまる気がする。概念やシステムからの抑圧から解放されないと、いつまでもつくられた人間と生身の人間とのあいだで、生死をさまようような葛藤がある気がする。

 

人の生き死にに、幸も不幸もないのに、不幸な死があるとおもいこんでいる自分は、概念とシステムにとりこまれているとおもう。ヒトの存在に、しあわせも不幸もないはずだ。

 

概念とシステムからの抑圧がある。このようにとらえることは、おおきなヒントがある気がする。概念とシステムをちいさく破壊していったさきに、なにかがある気がする。たとえば、概念とシステムに家畜化されているせいで、自分のなかの凶暴さに嫌気がさしたりするわけで。人間の本性は凶暴であるにもかかわらず。

 

 

The Show Must Go Onはアルバム『イニュエンドウ』に収録されています。かっこいいです、ほんま。

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