胡蝶の夢日記

20歳代後半の元大卒無職の現大学職員の雑記ブログです。こころの問題とかに興味があります。「自分のこと」をことばにすることでみえてくる自己実現について、かんがえています。多少だるいけど、シンプル&ポジティブで、はりきっていきましょう。

むかしから、ひとびとを魅惑、幻惑してきた思想にふれて、ひっぱられない自分があるか、たしかめてみる。

共産党宣言』をよむことに、もう一度、チャレンジしようとおもっている。

マルクス・エンゲルス 共産党宣言 (岩波文庫)

マルクス・エンゲルス 共産党宣言 (岩波文庫)

なかみを理解したいというのではなく、そっちにひっぱられない自分であるかどうかを確認したい。むかし、よんだときは、この本がもつ、ひっぱるちからのおおきさに、恐怖した。

それから、いま、ナチスのこと、とりあえず、ヒトラーゲッベルスのことも、すこし勉強したいとおもって、やっている。これも、そっちにひっぱられない自分であるかどうかを確認するためにやっている。

ゲッベルスと私──ナチ宣伝相秘書の独白

ゲッベルスと私──ナチ宣伝相秘書の独白

ひとびとを幻惑する、わかりやすくて、過激な思想の本を何冊かよんでみようという計画をゆるく実行していこうとおもう。

脱アウトサイダーとしていきていくために、だれかと酒をのむときに、酩酊するまで、のみつづけるのをやめようとおもう。

なんか、よくわからないけど、いま、なんだか、「自分の話をしたくない」という感覚が、うまれてきている。

聞き上手になりたいというか。とにかく、あんまり、自分の思想をひろげすぎずに、相手とわかりあえるくらいの距離をたもっていたい。

こういう感覚があるから、たぶん、深酒をしたときの自分が、最近、過度に嫌なんだ。

お酒をのむ量があるところをこえると、距離をたもつ計器がぶっこわれてしまって、なんか、自分の意識のなかから、目のまえの他者がきえてしまうような感覚になる。

「なんで、オレひとりで、しゃべってるみたいな空気になってるねん。えっ?ずっと、いままで、オレ、まわりの空気をこわさんようにしてたやん。いまちょっと、しゃべりすぎただけで、なんで、こんな、しらけた空気を感じなあかんの。。」と、いきどおりと自己嫌悪が、いりまじった気もちになることが、しばしば、ある。

たぶん、過剰に意識してしまっているだけのところもあるのだろうけど、そのとき、すでに他者との距離をたもつ計器がこわれているから、なんで、目のまえの他者が、しらけていって、さっと、うしろにひいていっているようにおもえて、孤独を感じるのか、もはや、わからなくなってしまって、どうにもならなくなっている。

いま、鶴見俊輔から、「真理は、いたい方角にある。~中略~おもいちがいのなかで、おもいちがいをすてることでその方角をむいて死ぬ以外に、なにができよう。」(退行計画より一部引用)というコンパスをもらって、これで、むかうべき道の方角をまちがうことがないだろうという安心がある。自分を信じて、いきていくことが、これで、ようやくできそうな直感がある。

鶴見俊輔 (KAWADE道の手帖)

鶴見俊輔 (KAWADE道の手帖)

とにかく、ぼくは、いま、この直感を直観にまで、たかめて、納得できるようにしたい。これをするには、酒から、ちょっと、距離をとる必要がある気がする。

ひとりでのむ酒はいい。
だれかとのむ酒も、少量であればいい。

いま、すこし自制すべきは、他者と、大量の酒をのむことだとおもう。しばらく、これはひかえようとおもう。率直なところをいうと、酩酊することなしに、他者とのあいだに、ひらかれた自分をあらわにしたいのかもしれない。

アウトサイダー (集英社文庫)

アウトサイダー (集英社文庫)

また、歯が、かけた。たすけてくれ。

また、歯がかけた。

右側の奥歯たちが、いつ、まっぷたつにわれても不思議ではないような状態らしい。

しみて、いたいが、病院はやすみなので、あさってまで、たえねばならない。

ながく知覚過敏かとおもっていたが、どうも、歯に亀裂があって、そこから、しみているようなのだ。高校生のときから、右の奥歯がたまに、しみていたのだが、当時、みてもらった歯科医が、知覚過敏だといっていたは誤診なのではないのか。もっとはやくに、わかっておれば、あるいは、こんなことには…。

なにかで、コーティングするとか、なにか策はないのだろうか。

歯科医は、いつも、「ねるときに、マウスピースをつけてください」としかいわない。ちょっと、まってほしい。ぼくの歯が、かけるときは、きまって、食事中なのだ。くわえて、ぼくの歯は、もはや、いつ粉砕してもおかしくない状態なのだ。マウスピースなどを使用することに、なんの意味があるのかが、わからない。

どなたか、よい歯科医をしっていましたら、おしえてください。

心と頭と体のたくましさをバランスよくきたえることで、集団や組織に「ちがう」と意思をしめすことができる態度をもつことができる。

ある集団や組織に対して、個人として、「ちがう」とかんがえることには、「ちがうという意思をしめす」ことって、市民としていきる人間がふつうにもっているべき態度のような気がしてきた。

実は、ぼくは、これが、ながくできなかった。できないというか、意思を対外的に、しめすことをあきらめていて、そうしなかったら、いつのまにか、それをできない人間になっていたというのが、正確なところだ。

いまから、このことについて、じっくりかんがえていきたいところだけど、このような態度は、国家権力なんかのプロパガンダとかに、とりこまれないようにするために必要なものなんだと、ぼんやりとおもっている。司馬遼太郎なんかがいっていることのひとつは、これなんだとおもうけれど。

とにかく、着想として、ああだこうだをのこしておきたい。

「ちがう」という意思をしめすには、おそらく、精神と思考のたくましさが、まず必要だとおもう。それから、もうひとつ必要なのが、肉体のつよさなのだと。

精神、思考、肉体がたくましくなって、ようやく、集団や組織に「ちがう」と意思をしめすことができるようになるのだとおもう。

ぼくは、最近、主観的には、肉体かがたくましくなってきたと理解している。7kmを1km5分台で、はしれるくらいのたくましさを肉体がもつようになった。

これにともなって、「ちがう」という意思を他者にむかって、しめすことが、まえよりも、できるようになってきた気がしている。もちろん、このことは、ずっと、できなかったことなので、なかなかに下手くそなのだけど。

これまでのぼくは、個人がもつ精神、思考、肉体のパワーバランスでいうと、思考がやたらつよくて、精神は不安定ではあるがエネルギーはおおきく、肉体だけがまるで貧弱だった。

いま、肉体のたくましさが、底あげされてきて、ちから関係が均衡してきている。あるいは、これによって、不安定な精神のエネルギーが、安定してきたようにもおもえる。その精神のエネルギーは、内向的なものだったが、裏がえして、外向的なものにすることができるようになってきたのは、肉体のたくましさのためかもしれない。

とにかく、いま、ぼくの精神はやっぱり、不安定なところがあるから、肉体のたくましさによって、「ちがうという意思をしめす」ことができるようになったちからを、内向的なときに、まちがってつかってしまうと、どうも、排外的な方向にむかってしまいそうな気がしている。

ぼくにも、すきなひとがいた事実。そのひとを愛していた事実。ぼくも、ひとを愛することができたという事実。

決して、かっこういいものではないけれど。
どんな場所でも、どんな人間でも、そのひとをすきになったという事実があるだけで、十分だ。









ひとを好きになるということ。ひとを愛するということ。

あなたのことが、すきでした。

けれども、いま、むすばれることはできないだろうとおもうので、ぼくは身をひきます。

あなたは、ぼくをひととして、すいてくれていました。ひとを愛せないぼくをうけいれてくれました。

ぼくは、あなたのそのやさしさに、のぞみをたくし、「すきである」とウソをつきました。そのウソとは、ほんとうのウソではありません。

「あなたのことを愛せるのか、すきなのかすら、わかりませんが、あなたといると、こころがたのしくて、あなたをもとめているような感情があることを感じます。それは"おそらく"すきということだろう。」

そう、自分をことばによって、ごまかすことで、あなたに、「すき」だと、まえにいいました。

今日、あなたとあって、その「すき」という感情が、ほんとうのことだと感じることができました。

だから、ぼくは、あなたから、身をひきます。

自分が、いたい方角をむき、いたみを感じることから、目をそむけません。

あなたをあきらめ、あえなくなることは、やっぱりさびしい。ぼくは、そのいたみをずっと、わすれないでしょう。

ぼくには、ひとを愛するちからが、あったのです。
大好きなあなたをあきらめることで、傷つくこころのいたみをぼくはうけいれることができました。

ぼくは、愛することでおってしまう「いたみ」をうけいれることができた。

ぼくは、ひとをすきになれたし、愛することができた。だから、身をひくことができたのです。このいたみがあることをぼくは、うれしくおもっています。

だれかにいってみたり、どこかにかいてみたりすることで、わかっていないことの外堀がすこしずつうまってきて、みえてくることがある。

わかっていないことでも、とにかく、だれかにいってみたり、どこかにかいてみたりすることは、よいことだ。

直接、だれかにいったとしたら、その相手は、かならずリアクションしてくれる。無視されたり、めんどくさがられることも、もちろんリアクションだ。

このリアクションが意味するところを吟味すれば、「わかっていないこと城」の外堀の一角が、すこしでもうまるだろう。

SNSなどに、かいてみることもおなじだ。ここにかけば、自分で客観的に、ふりかえることもできるし、だれかがコメントをくれるかもしれないし、また、だれかがそっと、"いいね"をくれるかもしれない。

自分が客観的にみかえすことも、ひろい意味ではリアクションだ。未来の自分が、過去の自分にリアクションしたわけだ。うしろのふたつは、いうまでもないが、ここからわかるのは、だれかの琴線に、自分のわかっていないことが、どういうわけか、ふれたということだ。これでもやっぱり、「わかっていないこと城」の外堀の一角が、すこしでもうまるだろう。

ようは、他者のリアクションから、はっと、気がつくことがあるのだ。