胡蝶の夢日記

20歳代後半の元大卒無職の現大学職員の雑記ブログです。こころの問題とかに興味があって、いつか人類学をやりたいとおもっています。「自分のこと」をことば化することでみえてくる個性化について、かんがえています。

念願の『DAHLIA』(X JAPAN)を手にいれた!

Amazonから、今日、X JAPANのアルバム『DAHLIA』がとどいた。ずっとききたかったが、ちょっとまえまで、Amazonの中古価格で5000円くらいしていたので、あきらめていた。TSUTAYAでも、そもそも商品がなかったみたいで、レンタルできなかった。しかし、先日、Amazonの中古価格が1200円くらいまで、下落していたので、ついに購入した。

ひさしぶりに、ワクワクしながら、アルバムをとおしで、きいた。ききかじっている曲もおおくあったが、それでも、なかなか感動した。

いまさらファンになっているので、もはや、白紙の状態では、きくことができない。未来の人間が、すべてをしっている状態で、過去の表現を受容しているわけなので、感じるままに、ききいることはできない。どうしたって、先入主で解釈してしまう。

ToshIの歌声が、やっぱり、いたいたしく感じたし、hideの死の影がちらついているように感じられた。完成度がたかくて、きれいなアルバムだとおもったので、それぞれの決意とか、運命が、人知をこえたところで、影響していたのかなあとか、妄想したり。

そんなことは、まあいいや。

hideから、はいった人間なので、ZILCHの「WHAT'S UP MR.JONES?」が、「DRAIN」という曲名で収録されていて、それをToshIがうたっていたのが、新鮮で、かっこよかった。

時系列がめちゃくちゃで、たのしめるのが、後世の人間、あるいは未来の人間の特権だとおもった。

DAHLIA

DAHLIA

3・2・1

3・2・1

西森博之(『今日から俺は』の作者)の漫画の個人的オススメ

西森博之本』というのと、短編集がでていたので、かった。西森博之といえば、『今日から俺は』のドラマ化で、ひさしぶりにホットになったから、こんなのがでたのだとすると、ファンとしては、けっこううれしい。

ということで、個人的にすきな西森博之漫画をオススメしようとおもう。
目次

①『天使な小生意気

ぼくは、この漫画から、西森博之をしった。正直なところ、西森漫画は、この漫画で完成してしまっているとおもう。物語のテーマ性が、すばらしくて、哲学しちゃう系の漫画ともいえる。「男らしさってなに?女らしさってなに?自分らしさってなに?いきるとは、どういうこと?」っていう、近代人がもつ普遍的なテーマをしっかりとえがかれていて、ひとつの回答をあたえてくれているとおもう。爆笑できるギャグはないけど、終始ホッコリさせてくれるようなわらいがある。そして、主人公側の登場人物たちが、ほんとうに、みんなかっこいいのだ。『今日から俺は』ほど爆笑できないけれど、ワクワク感は『今日から俺は』以上だとおもう。

②『今日から俺は

この漫画以上に、わらった漫画はない。今井監禁は、ほんまにわらった。最初の方は、絵がまだ下手くそなのだけど、5巻くらいで安定するので、ドラマから興味をもったひとも、ちょっと我慢して、ぜひ一読するとよいとおもう。

③『道士郎でござる

道士郎でござる 1 (少年サンデーコミックス)

道士郎でござる 1 (少年サンデーコミックス)

この漫画もめちゃくちゃわらえる。ギャグセンス的には、この漫画も奥がふかい。ただ、巻数がすくなくて、最後、一気にまとめにはいっている感が、素人でもわかるので、ちょっとものたりないかも。道士郎という中心人物は、現代にあらわれた最強のお侍さんなのだけど、めちゃくちゃつよくて、まじめで、キャラが最高にたっていて、おもしろい。

おまけ

理子ちゃんと三橋のかけあいみたいに、ほっこりしたければ、『お茶にごす』がいいとおもう。

裏オススメ

柊様は自分を探している。

西森博之が、漫画で問うていたテーマの結論が、最終巻で表現されていると、ぼくはおもっている。終始、あまりパッとしないというか、もりあがりにかける漫画ではあるけれど、ラストが西森ファンであれば、最高だとおもう。ラストをよむためだけに、この漫画はあるのだといってもいいほどだとおもう。

読書のおもしろさ。藤川球児『未熟者』の読書感想文

たいした量の本をよんできていないし、そもそも読書というもの自体があんまりすきでもない。だけど、本をよんでいて、おもしろいとおもえる瞬間は、それでもやっぱりある。

藤川球児の『未熟者』という本のあとがきに、「まだ28歳。人生80年として、僕はその3分の1を生きたに過ぎない。」、「プロに入って10年の時が流れた。次の10年もまた、長いものになるだろう。」とある。

さっきの記事に、藤川球児を「10年単位でいきる人間」の先輩であり、ヒーローであるとかいたけれど、そのこたえあわせというか、直観がただしかったことを読後にしることができた。このような瞬間がやっぱりおもしろい。
hide-himuro.hateblo.jp

もうひとつおもしろいのは、よむ本は、自分でえらんでいるつもりだけど、あるいは、本によって、えらばされているのかもしれないということだ。

ぼくのヒーローである藤川球児が、ちょうど10年前の「29歳になる年の、28歳」のときに、感情や思考をそのままの形で表現した本が、この『未熟者』という本なのだ。ここには、人間「藤川球児」が、10年前に、かんがえたり、感じたりしていた、生(なま)の声が記録されている。

ぼくはちょうど今年29歳になるけれど、この本には、いまぼくがやりたいこと、やろうとしていることに、すごくちかいことがしるされている。

232、233ページから引用する。
「『こんな感情的なことを書いて、だれが得をするんだろう』と思うようになってきた。~中略~悩みや葛藤がある分、自分がおもっていることの8割しか文字にできていなかった。これでは、本を出す意味がない。僕は、迷惑を承知で出版延期をお願いした。~中略~僕はとにかく書いてみることにした。そのとき思っていること、感じていることを、とにかく書いた。すると、少しずつではあるけれど、頭のなかがすっきりしてきた。~中略~本としては最悪かもしれない。悩み、苦しんでいた『未熟者』の僕が、前向きな気持ちになるための『ステップ』になってくれた本を、お金を払って読んでいただくのだから。」

ぼくが、この本を5年前に、よんでいても、なにもかんじなかっただろうとおもう。10年前なら、なにかを感じたかもしれない。たけど、おそらく、感じたことが、なになのか正体をつかむことはできなかったとおもう。

だいたい、当時から、藤川球児のファンだったので、本をだしたことくらいは、しっていたのに、手にとることはなかったし、その後もすっかりわすれていたのだ。これはたぶん、本にえらばれているからなのだと、多少オカルトなことをいって、この読書感想文をおえる。

「10年(5年)単位でいきる人間」(藤川球児というボクのヒーロー)

藤川球児の本をよんでいる。

・この口数のおおさって、なんだろう。にている。

・感じたことをしっかりとかいている。感じかたとか、ぼくとすごくにている。

藤川球児自身の自分の性格理解とぼくのそれもにている。

・小中学生のころから、ぼくは藤川球児のファンだ。最強のストレートを手にいれるまえから、すきだった。テレビでみていて、なんか感情移入したり、しだいに同一化するところがあったのだろうか。藤川球児が、その時々に感じていたことと、ぼくが藤川球児という野球選手をみて感じていたことが、おなじように感じられるときがある。

・ぼくの勝手な理屈だが、ぼくと藤川球児は、おなじ時間軸でいきているから、にているのだとおもう。藤川球児は1980年7月うまれ、ぼくは1990年8月うまれ。人間は、5年とか、10年とか、そういうくぎりをけっこう気にしてしまう。「つぎの10年をどういきるのかをきめるために、この5年をどういきるか。」とか、意識的にかんがえるひともいれば、ぼんやりと無意識的にかんがえるひともいる。ぼくにとっての藤川球児とは、「10年(5年)単位でいきる人間」の先輩なのだ。そして、藤川球児はただの先輩ではなくて、ヒーローなので、しらないうちに同一化しているから、ぼくという人間が彼ににていっているのかもしれない。余談だが、氷室京介は1960年うまれで、梅棹忠夫1920年うまれだ。生年月日をみてから、すきになっているわけではない。没入するいきおいで、すきになったあとに、生年月日をみてみて、10年単位でいきる先輩だとしったときは、いつも、ちょっと感動している。

80点でいい。100点はいらない。20点だけ、あそびのあるゆたかさ

論じるより、たれながす方がおもしろい。性分にあっている。

論じると100点をださないと、意味は通じない。たとえ1点でもおとすと、そこからほころびがでてきて、まちがって、つたわってしまう。しかし、たれながすのなら、80点くらいでも、なんとなく通じる。なぜなら、のこりの20点は、他者が、各々の論理や想像によって、うめてくれるからだ。

明石家さんまは、「100点はええねん。80点くらいのところで、あそぶのが、俺のお笑いや」という。

ポピュラー音楽も、お笑いも、小説も、学者のかく学術書ではない本も、漫画も、すべてそういう「80点くらいのあそび」があるとおもう。そういうものに、ぼくがふれるとき、いつも20点をうめるちかづきかたをしている。自分には、20点だけうめることができて、80点だけ表現できる論理力や想像力があればよいとおもう。

まだ、なぜ性分にあっているのかということをちゃんと説明していない。

しかし、性分のことを説明するのは、そもそも無用のことなのかもしれない。

ひとつだけ、たしかだといえるのは、20点だけ、他者にひらかれているという感じが、ここちよくて、すきだということだ。

新入りのhide色のボールペンくん

かきやすくて、重宝していた4色ボールペンがなくなった。重宝していたわりに、筆箱にしまわず、ポイっとなげすてたりしていたので、とうとう紛失してしまった。

7年くらいつかっていたので、ちょっとショックだ。替芯もたくさんかって、ストックしていたので、もったいない。

今朝、家のちかくの文房具店にいった。文房具店にいくのは、いつぶりだろう。店にはいると、店主であろうおばちゃんが、店の奥(居間だろうか?)からでてきた。個人商店の独特の雰囲気が、おもしろかった。

おばちゃんに、「この替芯をつかえるボールペンはありますか?」ときいたが、「これはないわあ、ごめんやで」といわれた。残念だ。

しかし、ボールペンはすぐにほしかったので、ちがうタイプの3色ボールペンをかうことにした。何本か、ためしがきすると、よい感触のものが、すぐにみつかった。手にとったのは、青色の柄のボールペンだったが、他の柄がないか、さがしてみると、ピンク色の柄があったので、これにきめた。
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ピンク色といえば、hideだ。赤色もhideだが、ピンクの方がすきだ。ピンク色だというだけで、この新入りのボールペンに対して、途端に愛着がわいた。

ぼくという人間は、影響をうけやすい人間なのだと、つくづくおもった。おだてられれば、木にのぼりたくなるし、お世辞をいわれれば、その気になるし。ピンク色なんて、hideの影響をうけるまえなら、えらばなかっただろう。

しかし、この単純さは、たいせつにしたい。しばらくのあいだ、この単純さに、ノイズがはいっていて、ゆがんでいたが、最近はノイズがほとんどきえた。うれしいことには、素直にうれしがれるという単純さは、とてもよいことだとおもう。

「食事―労働」系の社会参加のしかた

適当に事務をやっていればいいっていう仕事ではなくなってきて、けっこうきつい。

なにがきついのか。なぜか、アイデンティティーがゆらいでいるような、危機を感じているのだ。おおげさだが、内的には、おおげさではない。

「適当に事務をやっていれば、いい」という社会参加と、「企画立案、制度設計のために知恵をしぼり、他者にはたらきかける」という社会参加のしかたは、まったくちがう。このちがいに直面して、アイデンティティーが破壊され再構築されるようなきびしさに直面しているように感じている。

ぼくはこれくらい、繊細で、社会性のない人間なのだ。これを理解しないと、社会で、はたらくということができない。

ところで、山極寿一著の『父という余分なもの』という本をよんでいる。

父という余分なもの: サルに探る文明の起源 (新潮文庫)

父という余分なもの: サルに探る文明の起源 (新潮文庫)

この本の36ページに「人類は~中略~食事という社会交渉を発明したのである。」とある。

つまり、食事も社会参加なのだ。ぼくは、この社会参加は、できる。単にできるというのではなく、水準以上かもしれない。とにかく、お酒の場での社会参加の腕は、しっかりあるとおもう。

さらに、38ページには、こうもかかれている。「人類の食生活の特異な点は、食物をその場で消費せず、自分に必要以上な量を持ち帰って、仲間と一緒に食べるということにある。~中略~食は人類にとって個人的な行為ではなく、食物を探す段階からすでに社会的な行為なのである。」

ここで、おもしろいのは、「食物を探す段階からすでに社会的な行為なのである。」とあることだ。

「食物を探す」ことは、つまり労働だとおもうが、これが意味するのは、食事と労働はひとつづきの社会的な行為だということだろう。そして、その「食事という行為」と「食物を探すという行為」は、「段階」ということばで、くぎられている。

食事と食物を探すという労働は、おなじ社会的な行為なのだが、ことなる段階として、くぎられているものなのだ。

ぼくは、食事をとおす社会参加はできているが、食物を探すという労働という段階での社会参加は、まだできていないのだ。ここに、みえた、解離というか、断絶というか、統合されていない感じが、問題の核心のような気がした。

食事をしているときは社会参加できている心地よさがあるが、労働にはそういうものはない。半分かけた、ものたりなさは、ここにある気もする。そして、リアリティーがないというのも、「食事―労働」系の社会参加が完成していなくて、「食事―」だけの社会参加になっているからかもしれない。