胡蝶の夢日記 行為と妄想をかきのこしていくところ

心身の問題や民族学に興味あり。「自分のこと」を言語で表現することでみえてくる自己実現について、かんがえながら、ブログをかいています。社会性って、なんだろう?どうしたら、社会に参加できるのだろう。

合理化したい仕事。合理的思考の訓練と運動(落合博満の思考をたどりながら、素振りをする)。

日記。

今日は仕事だった。奇数週の土曜日なので、半ドンなのだが、18時半ころまで、残業していた。やった業務は、コンピュータと人の手で作成した時間割と元資料とを声にだして、よみあげて、つきあわせていくというもの。はなはだしく、原始的な手法だ。最後の方は、ちからつきて、チェックはザルだし、よみとばしていたり、チェックをつけわすれていたり、ヒューマンエラーだらけだった。確認作業になっているのか、まったくうたがわしい。時間割作成の行程を整理して、可視化してから、チェックポイントを論理的に、みちびきだすくらいのことをした方が、チェック能力は、質的にパワーアップするとおもうが。

うえのような仕事をしていたので、今日は、半日以上、首を下にむけっぱなしだった。おわったころには、左側の首筋が、ふたたび、ややつよく、いたみはじめていた。帰路についたころには、はやく、ねころんで、首をやすめたいほど、つらかった。

しかし、今日も、しっかりとバットスイングをおこなった。50分弱をついやし、たぶん100スイングくらいはやった。首に関しては、専門家から、可動域について理論的に説明をうけていて、どこまでうごかしていいのか、おおよそ理解できていたし、また、「運動しても大丈夫。むしろ、このたぐいのいたみでは、からだをうごかしながら、なおしていくことの方が、主流だ。」とも、説明をうけていたので、割合安心しながら、バットスイングをおこなっていた。これについては、今日は不思議な感覚があった。からだをうごかすまえ、うごかしはじめは、首筋がいたくて、すごくしんどかった。しかし、30分ほど、バットスイングをおこなっているうちに、いたみがひいてきたのだ。理屈はわからない。血流がよくなって、いたみがとれたのだろうか?なんにせよ、よかった。

近頃は、隙間時間には、ほとんど落合博満のバッティングの連続写真をながめている。また、仕事中、トイレにいったときや、からだをのばしたいときなどには、バットスイング時の右腕のぬきかたの練習をしている。自分でいうのもなんだが、たかだか1ヶ月ちょっと、週5日前後、一回40~50分くらいの練習量で、いまのレベルのスイングができているのは、上達がはやいとおもう。これは、まちがいなく、うえのようなイメージトレーニングをしているからだとおもう。スポーツは頭をつかってやるものだ。無意味に、過剰な量の運動をおこなって、からだを酷使したって、上達しない。体育教師や部活の顧問のおおくは、はなしをしてみれば、よくわかるが、やっぱりちょっと頭がたりないだろう。

バットのグリップについて。はじめてバットをかうので、わけがわからず、グリップがややふとく、また、グリップエンドにかけて、ふとくなっていく仕様のものをかった。はじめは、これがふりやすいとおもっていた。しかし、ふりこんでみると、なんだか、ちょっと、ちがう感じがしてきた。もうすこし、グリップはほそくて、また、グリップエンドにむかって、ふとくならなくてもよいという感じがある。

成長したこと。自分のスキルアップや人生をゆたかにするために、仕事にとりくめるようになってきた。

日記。

テーマは、「『勝手にプラス5』の原理」。

なんのことやというと、どんな仕事でも、評価されるかどうかなどにとらわれず、自分のスキルアップのために、創意工夫をして、真剣にとりくむということ。うけうりのことばなので、真意からはニュアンスが多少ずれているかもですが。

テーマに関しては、②と③をよんでくだされば、なんとなく、においをかぐことはできるとおもいます。

①なぜか首筋のいたみが、なくなった。

今朝、おきたら、左側の首筋のいたみが、ほとんどなくなっていた。理由は、わからない。湿布がきいたのだろうか。いたみがひどくて、深刻なケガかとおもったが、よかった。しかし、今日は、あけがたに一度、激痛で、目がさめている。いたみのない体勢になって、頭を固定して、ふたたび、ねたのがよかったのだろうか。まだ、ややいたみはのこっているが、日常生活に支障はないので、安心している。

②バットスイング(素振り)の再開~素振りから合理的思考のヒントをえる~

首筋のいたみが、ほぼなくなったので、バットスイング(素振り)を再開した。

バットのトップの位置
右腕(捕手側の腕)のぬきかた
顔の位置を前後させないこと
からだの中心での回転運動
右腕を最後までおすこと
フォロースルーからの手首のかえしかた

これらなどを意識して、スイングした。

「ピッチャー(ピッチングマシンもふくむ)がなげたボールをうつ」という経験がないので、ない経験を妄想してイメージしても、かえって、わからなくなるとおもったので、「ただしいかたちでバットをふる」という動作だけを確認しながら、スイングをした。今日は、割合、これがよかったとおもう。40分ちょっとの時間をかけて、100回くらいスイングをした。毎日、つかえる時間と体力に制限があるので、どう練習するか工夫していくことが課題だとおもう。
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③「勝手にプラス5」の原理

最近は、仕事へのとりくみかたが、やや順調だ。自分から、仕事が順調だなんてことをいう日がくるとは、おもいもよらなかった。業務を合理化してしまおうと、とにかく、いろいろかんがえて、実行している。落合博満が、バッティングの理屈をステップ1(だれもがまもるべき、基礎的な技術)とステップ2(個々の投手や変化球、自分のスタイルなどを総合して実践する、応用的な技術)とにわけていたことに着想をえて、定型的な業務や原則によっておこなわれるべき仕事をステップ1ととらえ、これらを項目ごとに整理し、言語化し、サーバにデータで、チューブファイルに紙で保存し、データベース化をめざし、検索可能にして、効率化するという壮大な仕事を勝手に、はじめている。勝手にというのは、上司は「ひきつぎ用のマニュアルをつくってくれ」といっていただけなのだが、それをちょっと飛躍させているというほどの意味だ。山納洋さんから直接きいたり、著書の『地域プロデュース、はじめの一歩』でよんだ、「勝手にプラス5の原理」のことが、ようやく皮膚感覚でわかった気がしている。ちょっとおとなになったなーっていう、素朴なよろこびがある。

この本、ふつうに、おすすめです。

地域プロデュース、はじめの一歩

地域プロデュース、はじめの一歩

  • 作者:洋, 山納
  • 発売日: 2018/03/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

夢日記~最近、自信がついてきて、実生活の調子がよいのに、嫌な夢をみた~

最後は、今朝みた夢のこと。むかしのことをおもいだす、ちょっと嫌な夢だった。
ぼくは、スマホをもたずに、しらない地域に、自転車であそびにいっていた。駐輪場に自転車をとめて、まちあわせ場所にむかって、そこで、むかしの(高校の)級友たちにあった。同窓会だろうか、そのまま居酒屋にむかった。その会は、おひらきになり、二次会のながれになった。しかし、ぼくは、全然おもしろくなかったので、これで、かえることにした。かえりは、しらない土地で、急に、ひとりになったので、道がわからなくなって、右往左往した。自転車の場所がわからない。駅もどこにあるか、わからない。スマホをもっていないことを後悔した。じたばたして、あるきまわっていたら、二次会にむかう、むかしの級友たちがいた。はずかしくて、声をかけられなかった。居場所のない自分が、かなしくなった。

「暗中模索の自分さがしの物語」がおわり、「なにか風景がえがかれたキャンバスに、"自分"をえがいていく物語」がはじまった。

今日は、仕事がえりのバスと電車で、職場の哲学の先生といっしょになったので、いろいろはなすことができた。


ファシズムとか、ポピュリズムに、すこし関心があります。○○という本を今日、Amazonのオススメでみつけましたが、著者をご存じでしょうか?」と質問してみた。著者のことは、すぐにはおもいうかばないとのことだったが、「なぜ、そういうたぐいのことに関心があるのですか?」と問いかえしてきてくれた。たいへんたよりなくて、まとまりのない返答になったが、ことばをさがしながら、自分という存在のあやうさ、もろさ、うつろいやすさのことなどをはなした。


なにをどうはなして、どんなふうに、回答してもらえたのか、うまくおもいだせないので、キーワードだけ、かきのこしておこう。


ファシズム
ポピュリズム
情報を取捨選択し判断できない自分
判断する自信のなさ
集団や組織への埋没
自己主張する、自己主張しない・できない
社会というものが皮膚感覚でわからない
村上春樹
あだち充の『タッチ』の上杉達也
自分が野球をやりたい・すきだというより、関係性(朝倉南や上杉和也)のなかで野球をする
自我のもろさ
集団や組織のなかで「NO」をいいにくい空気とファシズムっぽさ


こんなテーマのことをひととおり、はなしおえたあと、先生から、「ドイツのナチスの時代のことに興味があって、すこし勉強したということだったら、フランクフルト学派を勉強してみるのはどうでしょう。権威主義的パーソナリティなどを勉強してみると、よいかもしれません。」と、おしえてもらった。

先生とわかれたあと、「権威主義的パーソナリティ」について、ググってみてから、一冊、新書をAmazonでポチった。ポチった本は、細見和之著『フランクフルト学派 -ホルクハイマー、アドルノから21世紀の「批判理論」へ 』(中公新書)。


そのあと、ひとりで、電車にゆられていたとき、ぼんやりと、つぎのようなことがおもいうかんできた。


去年の10月ころ、「NO」といいにくい空気が蔓延している集団(職場)のなかで、はっきりと「NO」と意見をいい、そして、「だから、ここに所属するのをやめる」と、はっきりと自己主張したことは、自分にとって、やっぱりターニングポイントといえるくらい、重要なことだった。「わたしは反権威主義である」という立場をはっきりと、しめしたともいえるとおもうが、これができたことで、自我が一本、しっかりとたったようにおもう。


この瞬間から、自分らしさがわかった感じがあったし、「自分という存在は、こうである」と、はっきといっていける感じをつかんだ。ふりかえってみると、おそらく、この瞬間から、「暗中模索の自分さがしの物語」がおわり、「なにか風景がえがかれたキャンバスに、"自分"をえがいていく物語」がはじまったのだとおもう。


最近、バットスイング(素振り)をしているだけで、とても人生が、たのしいのは、これはきっと、その行為が、「なにか風景がえがかれたキャンバスに、"自分"をえがいていく物語」の一部だからかもしれない。また、バットスイングをしているだけで、仲間がふえてくるし、仕事の調子も、すこしずつ、よくなってきているのも、もしかしたら、自分をえがいていく物語をいきはじめたからかもしれない。


ちなみに、余談だが、「なにか風景がえがかれたキャンバスに、"自分"をえがいていく物語」ということばは、自分で、いまつむぎだした。しかし、このことばは、今日、先生から、「自分という存在は、まったくなにもないところよりも、社会との関係性のなかからの方が、つかみやすいとは、やっぱりいえる。自我も、その方が安定しやすい。けど、そんなひとも、今回のコロナウイルスとか、震災があって、社会の根幹がゆらいだとき、自分という存在をみうしなう。震災のあと、いきかたをみつめなおしたひととか、やっぱりいるでしょう。」という話をきくことができたことが、きっかけで、無意識の底から、スーっとでてきたと理解している。

イメージトレーニングで、からだの感覚をつかんでいく。バッティングの動作をことばにする。

左側の首筋がいたくて、当分、運動はひかえようとおもうので、バットスイングに関するからだの感覚を言語化して、イメージトレーニングをしようとおもう。


そもそも、「からだの感覚を言語化して、思考をたくましくし、思想をねり、精神をたくましくする」という、この行為こそ、バットスイングの取組の第一の目的なのだった。


以下、落合博満の打撃理論に、王貞治の打撃理論をミックスして、自分なりに解釈したかたちでの、バッティングの動作。



バットをかまえた時点で、ちからをぬいているが、自然な動作をはじめるためには、予備動作をなめらかにおこなえるくらいのちからのぬきかたが必要だ。棒立ちではだめだ。

かまえたときから顔の位置を、うつ瞬間まで、前後にずらしてはいけない。始動のときは、腰をさげ、顔を下の方向にややさげながら、バットをトップの位置方向へと始動させ、同時に左足を前にステップさせ、うつかまえを完成させる。左足が前方へのステップを完了した時点で、バットはトップの位置にある状態になり、ここで、うつかまえが完成する。このとき、右足はホームベースよりに屈曲し、左足はやや屈曲できるくらいのあそびをのこして前方にのばし、左腕は弓をひくようにのばし、右腕は弓をひききったあとのように、からだの内側でおりたたむ。

スイングする瞬間は、腕を前方に始動させた瞬間、ほとんど同時に、軸足の右足の内側のちからを左足内側にぶつける感覚で、始動させる。あとは、バットをおもいっきり前方にほうりなげるくらいの感覚で、腕をまえにふり、その勢いを利用し、からだの中心で回転運動をおこなう。手首については、インパクトの瞬間に、右手でバットをおしこむことをは意識するが、手首をかえすことは意識しなくてもよい。前方におおきくバットをふりきったとき、手首は最高到達点で、自然にかえるのだ。からたの構造上、かえらずにはいられない。

バットがボールにインパクトする瞬間までは、からだの中心より、ややうしろにちからをのこす意識で、インパクトの瞬間に、ちからをまえにグッとおしこみ、移動させる感覚。インパクト後、フォロースルーにはいるころには、ちからをうまくにがすために、からだは、顔もふくめ、前方に移動してもよい。

日記。左側の首筋がいたい。落合博満にハマる。居酒屋での女性客との出会い。

日記。


①左側の首筋がいたい。

左側の首筋がいたい。昨日くらいから、いたみがでてきたけど、悪化したかもしれない。根をつめて、素振りをやってしまったためかもしれない。あきっぽくて、持続力はないのだけど、ハマると、一時的に熱心になってしまう性格が、わざわいした気がする。しばらくは、安静にしよう。ちなみに、この左側の首筋のいたみは、2、3年まえまで、慢性的にいたみがあって、ストレスの種だったものと、おなじ感じなので、ちょっと心身の感覚的に、不安がよぎっている。また、変に意識しすぎるのではないか?と。

落合博満にハマる。

とにかく、最近は、落合博満にハマっている。自伝を二冊購入したし、連続写真を収集したり、YouTube落合博満関係の動画をあさっている。そして、ついに、奥さんの落合信子の著書まで、かってしまった。Amazonでかったので、あさってくらいには、とどくだろう。落合博満ナルシシズムと変態性に、ちょっと、とりつかれた感じがある。落合博満のわらった表情が、特にすきなのだけど、その表情からもつたわってくる魅力の本質を、もうすこしさぐりたい。
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③串カツ屋での女性客との出会い。自然なきっかけの重要性。

昨日、9時半ころから、いきつけの串カツ屋さんで、お酒をのんだ。カウンターの一番手前の席にすわり、マスターとはなしながら、たのしんでいた。ほかの客が、二組ほどいたが、ぼくのとなり席は、あいていた。しばらくすると、わかい女性客がひとりではいってきた。マスターは、その女性をぼくのとなりの席に、すわらせた。ちょうどそのころあいで、ほかの二組がお勘定をすませて、店をでたので、店内はひろくなったが、手前側の端の席に、ぼくと、その女性がつめてすわる格好になった。

どうも、マスターは、この女性客とぼくとで、はなしをするきっかけをあたえたがっている感じがある。

この女性客は、以前から、何回か、みかけているが、この串カツ屋さんでは、女性客がひとりでくるのは割合めずらしいので、印象にのこっている。ひとりでくるお客といえば、あくのつよいおっちゃんばかりということもあり、また、そんなお店の空気のなか、自分の型をもったお酒ののみかたをしているので、雰囲気のある女性だという印象が、のこっている。

結局、この日、マスターが、サービスで、お酒の肴をだしてくれたことがきっかけで、はじめて、しゃべることになったのだけど、以前から、マスターは、そういうきっかけになるようなことを何度かしていた。こたえあわせは、していないし、しようともおもわないが、マスターには、粋なところが、多少あるので、うえのような思惑があることは、まちがいないとおもわれる。

それで、昨日のこの経験で、ちょっとおもしろいことに、気がついたのだ。自分の"らしさ"というものを、ちょっと鮮明に、みたような気がするのだ。

ぼくという人間は、「相手の領域に、自分から、ふみこんでいくこと」が、あまりすきではない人間かもしれない。受け身であったり、一歩ひいているようなかたちの方が、自分らしく、ふるまえる感じがある。自分を陰にし、相手を陽にして、相手をたてるくらいの位置関係にいる方が、気が楽だし、ちからが発揮できるような気がする。

昨日の経験では、相手の女性は、居酒屋などのカウンター席で、となりあった客と、はなしをすることになったのは、はじめてだといっていた。会話をするなかで、めんどくさがっている感じはなかったが、多少間がもたないような感じがあったのは、緊張していたためだろうか。

相手のかたのパーソナルなことをとやかくいいたいのではない。

昨日のあの時間、たのしかったのは、たしかだけど、めちゃくちゃ神経をつかって、気くばりをしていたので、すごく、つかれた。自分が主体となって、まわりに気をくばり、相手にきもちよく、しゃべらせることは、とても、たいへんなことだった。

原因は、わかっている。不自然さがあったのだ。

マスターの思惑に、ぼくは感づいていたことが、一番の不自然さだ(たとえ、まとはずれの、おもいこみだったとしても、意識してしまった時点で、このような状況では、これはすでに事実なのだ)。マスターの思惑に、気づいていたぼくとしては、マスターから、会話のきっかけが、あたえられたとき、あまり気がすすまなくても、会話をはじめて、話に、いくつかの花をさかせなければならない。マスターのはからいを、無視したり、だんまりしていては、ダメなのだ。これが、しんどかった。

自然なきっかけで、こころがうごいた瞬間をとらえてこそ、会話は、自然に発展していくのだ。自然に、話の花がさいてこそ、ぼくは自分の話を自由に展開していくし、相手の話をしっかりとききたくなるのだ。

自分としては、やや不自然さを感じていたので、意識的に、能動的にふるまわざるをえなくなったので、気分もなかなかのってこないし、とても、たちふるまいが、むずかしかった。らしくなくて、緊張もした。これだったら、よっぱらったおっさんのくだらない話に、適当に相づちをうっている方が、気はいくらか、やすまるといいたいくらいだ。

自然なきっかけをつくることは、むずかしいことなのだろうとおもう。

日記なので、これくらいで、まとまりなくおわるが、この日記のことばのはこびかたからは、落合博満がにおってくる気がする。あいかわらず、すぐに影響をうける人間だ。しかし、ひとの思想を理解しようとするなら、これくらい影響をうけやすい方が、かえって、都合がよい気もする。熱しやすく、さめやすいたちなので、泥沼にはまることもないだろうし、安心して、影響をうけていられる。

自信がついてきたという感覚。継続してきた経験からの手ごたえ。

日記。

テーマは、「自信」。



「このくらいまでやったら、つっこんでも大丈夫やろう」という感じで、日本社会にある不文律的なルールや基準が、なんとなく、わかってきたので、その分だけ、自信がついてきた。

人間、ときには鞘から、刀をぬいてみることも必要なのだ。ほんとうに、きりつけることはないが、刀をぬいて、かまえるという行為だけは、やらないと、かえって、なめられる。どうやら、それが、社会の基本にはある。

当然、刀をぬくということは、反対に、相手から、きられる可能性もあるわけだが、その可能性をうけいれることができるくらいには、自信がついてきた。もちろん、きられる間合いではないという確たるものがあることをふまえた自信だ。

このような感じで、精神的な変化がおきていて、自信がついてきたわけだが、いましめなければならないことがある。

『タッチ』の吉田くんみたいには、ならないように、気をつけようと、こころに、ちかおう。

このあいだまで、「上杉くん…!」とよんでいたのに、ちょっと4番バッターの新田くんをうちとったからって、「おい、上杉!!」といってしまうような人間であってはいかんのだ。

職場の大学には、出世したからって、突然のように、声がおおきくなって、陽気になっているひとがいるが、みっともない。組織全体としては、危機的な状態なのに、「自分の出世にうかれて、自分の利益だけをかんがえている」ような、極端に利己的な人間は、信用ならない。



それから、最近がんばっている運動のこと。


16歳からの三年間、野球の練習にうちこんだ少年には、19歳の年には、プロ野球にいくか、大学野球にいくか、社会人野球にいくか、という選択肢がある。

ぼくには、その選択肢がなかった。

野球選手として、第一線で、プレーすることができる体力的な限界は、一般的には、40歳くらいだろう。

ぼくはいま、29歳だ。あと10年くらいは、第一線でプレーできる可能性があると、あまく、みつもることができるはずだ。

3週間ほど、木製バットで、素振りをつづけている。週に4日ほど、一回30分~1時間。

この練習量からすると、けっこうな上達のスピードのような感触がある。まだ、一度も、実際にボールをうっていないので、なんともいえないが、バッティングフォームは、まちがいなく、ただしい方向にむかって、かたまりつつある。

いまのぼくには、29歳の頭がある。そして、29歳の精神がある。それなりに、きたえてきたつもりだ。

この頭脳と精神にくわえ、落合博満の知識と理屈があれば、のんびりと高校野球をやってきたひとよりも、十分に、うまくなれる可能性があると、ふんでいる。

あとは、どれだけ、根気よく、ゆるく継続していけるかが、鍵をにぎっているとおもう。

35歳くらいまで、つづけることができれば、十分にチャンスはあると、かんがえている。

はたらきたくなかったり、出世より人生のゆたかさをもとめたりするのは、ほっこりするような「やさしさ」をもとめる価値観が基準になっているからだとおもう。

すべてのリスクを回避したい。

自分がなにかを選択することで、誰かのなにかをうばうことになり傷つけてしまうことや、その選択が失敗におわることで自分が傷つくことから、のがれていたい。

このような傷をおってしまうリスクがあるのならば、自分をころして、なにも選択しないでいることをえらぶ。それが、もっともリスクを回避できる方法だとおもうから。

これが「やさしさをよわさと、わらわれて、よわさをやさしさに、すりかえてきたひと」(※氷室京介「angel」から引用、1988年リリース)の特徴ではないかとおもう。

あまり、うまくいえた気がしないけど。


あだち充の『タッチ』の上杉達也くんみたいなひとをイメージすると、わかりやすいかな?


『やさしさの精神病理』(大平健、岩波新書)によると、1960年前後うまれのひとたちから、「やさしくあること」が、価値観のおおくをしめるようになってきたらしい。そして、そのやさしさは、それ以前の社会のものとは、意味がかわっているのだという。「熱血であることをきらい、ほっこりするようなあたたかさをこのむ」というようなかたちに、やさしさが変容したと(手元に本がないため、ざっくり意訳している)。

もし、社会全体で、このようなあたたかさを基準にした価値観があるのだとしたら、「リスクをおう」ということのありかたも、現代社会は再定義していく必要があるような気がする。

ぼくもやっぱり、できるかぎり、あらゆるリスクを回避したい。リスクをとることは、「やさしくない」からだ。


ぼくが、はたらきたくない(労働したくない)のは、ころやさしさにもとづいたリスク回避の志向が関係している。

はたらくことには、社会的責任がともなう。社会的責任には、自分をふくむだれかが傷つく可能性を排除するできないというリスクがある。社会的責任をともなう仕事につくことは、リスク回避を志向する人間としては、苦痛なのだ。


ひとむかしまえの熱血主義者たちは、これを「ヘタレ」というだろう。

しかし、それはすこしちがっているとおもう。

最近になって、わかったけど、ぼくは、あそびには、割合熱心に参加することができる。

バットスイングというあそびには、手にまめができ、皮膚がめくれてしまうまで、毎日スイングすることができている。それをこまめに言語化し、課題をあぶりだして、本や映像をみて、改善方法を研究する。

だれかと、たのしく対話をするために、食事の場をセッティングする。たのしくないひとがいないか気をくばり、ときに上司も、その場にまきこむこともいとわない。調整するために、まえもって、ひととあって、その場のイメージをつくる。

これをヘタレと断罪できるだろうか。


どうやら、ぼくの感覚的には、あそびには、リスクがほとんどないから、熱心になれるという感じがあるようにおもう。

これは重要な視点だとおもう。
現代社会は、「あそび」という尺度で、価値観が形成されている時代なのだ。


世の中には、上杉のたっちゃんみたいなひとがふえている。前時代の価値観では、とらえきれない価値観をもった人間なのだ。その人間に、熱血主義的がんばりをもとめることは、まちがっているとおもう。そのまちがいのために、ひきこもりや自殺者がおおくなっているときうのが、現代社会のゆがみの理由だろうとおもう。かれらが、社会的にいきるために、いちいち、上杉和也をしなせるわけにはいかんとおもうのだ。


おもったことをかきつらねていると、おわりどころがわからない。
結論があるわけでもないし、ただ着想をことばにしたということだ。


やさしさの精神病理 (岩波新書)

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  • 作者:大平 健
  • 発売日: 1995/09/20
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タッチ 1 完全復刻版 (少年サンデーコミックス)

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