不条理と理不尽のちがい

不条理と理不尽のちがいを昨日からすこしかんがえている。不条理は人間の根源的な問題で対処不可能とすらおもえるものだけど、理不尽は対処可能な問題という気がした。

 

不条理と理不尽はにているようで、にていない。それらが、どういう構造になっているのかと、どうも玉ねぎのような構造になっていて、不条理は理不尽につつまれているような気がする。つまり、不条理というのは、あらかじめきめられた質とか量があるのではなくて、可変的なものなのだ。

 

不条理に直面したとき、めまいがするけれど、ひとが不条理だと感じるのは、さまざまだ。これはなんでおきるのかというと、たぶん、当事者の世界観の問題だ。世界観がひろかったり、せまかったりで、かわってくる。学校や職場が世界のすべてだったりするのと、ひろい世界をしっているひととでは、不条理への感度はちがってくる。

 

ようは、不条理と理不尽は玉ねぎ構造だから、一枚一枚理不尽の皮をめくっていけば、不条理から解放されるのではないか、とおもったのだ。理不尽の皮をめくっていく行為は、理不尽の解消であり、はたらくということだ。はたらくということは、他者にはたらきかけることで、自分の世界をひろげていくことだ。

 

そんなにくわしくないから、わからないけれど、カミュの時代には、不条理はどうにもならなかったことのような気がしているが、時代がかわって、選択肢がふえて世界をひろげていきやすくなったからこそ、不条理から、すこしは解放されることも、できる〜うになってきたような気がする。

 

いずれにしても、理不尽を解消していくことが、鍵をにぎっている気がする。

 

ー付記ー

カミュは不条理が受け入れることができるものであるとした。理由は、人生の意味が不条理を超えたところにあるからである。もし不条理に気づくことができれば、この世界が意味を持たないことに気づく。ということは個としての我々は真に自由であり、世界を客観的ではなく主観的に捉えることができるとした。個々が意味を探し求めて自分なりの解釈を得ていくことで幸せになれるのである。」(ウィキペディアより)

 

おおむねぼくのやっていることは、カミュの線からはずれていないな、と。

 

他者にはたらきかけて、自分の世界をひろげていくことでしか、不条理からは解放されないんだ。