谷崎潤一郎『痴人の愛』感想

谷崎潤一郎の『痴人の愛』をよみおわりました。谷崎潤一郎は初めてよみましたが、『痴人の愛』は、ドタバタラブコメっぽい感じで、終始おもしろくて、ひさしぶりに本にはいりこんで、たのしくよむことができました。いわずもがな傑作でした。

 

登場人物の譲治もナオミも浜田も熊谷も、なんだかとても身近な存在に感じました。新潮文庫の裏表紙には、「〜、やがて譲治も魅惑的なナオミの肉体に翻弄され、身を滅ぼしていく」とか、「知性も性に対する倫理観もない"ナオミ"は〜」とか、ネガティブな印象で説明されているけれど、ぼくには、あまりそんなふうには感じられませんでした。

 

譲治は結局資本家としていきて、かたちはどうあれ、愛するパートナーがいるわけで、かれの語り口的にも、最後はふつうにしあわせを感じているようで、なんにも身をほろぼしてなんかいないようにおもいます。会社をやめて、女にうつつをぬかすというあり様が勤勉でないということで、一面、身をほろぼしているようには、たしかにおもいますし、途中身をほろぼしそうな危険もはらんでいましたが、そういう労働観や人生観のメガネをはずすと、ひとつのいきかただな、とおもいます。

 

ナオミについても、交友関係のひろさや社交的なふるまいから、知性はあるようにおもいます。それから、性に対する倫理観についても、たしかに性をうりものにしたり、武器にする人間にある欺瞞っぽさは感じられるものの、相手の男性の人間をよくみている様子で、私利私欲のため誰彼かまわず股をひらくような堕落した女性ではなく、彼女のなかでは、なんらかの倫理観はあるように思えます。

 

「女性に魅惑され身をほろぼしていく男性」というのは、あるいは、昭和平成のステレオタイプなのではないか、と、にわかにおもいました。谷崎潤一郎のことをよくわからないですが、『痴人の愛』からは、新潮文庫裏表紙の説明文とちがう印象をうけました。

 

譲治やナオミのありかたを否定的なことばで表現するのは、昭和平成のステレオタイプだという、ぼくのかんがえは、あながちまちがっていない気がします。梅棹忠夫は、「自分のうまれた大正時代は、現代とよくにている。物質的にゆたかになっていたし、テクノロジーも発展し、昭和のように、まずしく、陰鬱な時代ではなかった。」というようなことをなんの著作か、すっかりわすれて引用できませんが、たしかいっています。梅棹忠夫のいう現代とは、高度経済成長期以降、特に情報産業化がすすんでいる時代のことで、梅棹忠夫は未来を予見していたほどなので、感覚的には今現在とほぼイコールのような状況をさしているように、ぼくはおもいます。ようするに、譲治やナオミに親近感をおぼえるくらい、いまの感覚ににているのです。

 

梅棹忠夫をもちだして、一般化して評論してみようとしましたが、うまくいきそうにないので、やめておきくべきでした。

 

なにがいいたいかって、とくになにもいいたいことはありません。ただ、1925年の作品らしいのに、こんなにわかりやすく、よみやすく、共感しやすいことに感動しています。すごくおもしろかったです。譲治やナオミに、妙な親近感をおぼえたのです。