大学という職場で出会った「わが師 わが友」。哲学へのしたしみかたをおしえてくれた。大学職員をやっていてよかったこと。

いまの大学という職場で、手にいれたもので、最大のものは、「"哲学"というものへの、したしみ」だとおもう。

これをおそわったのは、ひとつか、ふたつ、歳上の先輩だ。そのひとは、まったく「呼吸をするように、哲学をするひと」なのだが、ぼくのような「適当に、つまみぐいするひと」にも、真正面から、つきあってくれるナイスな人間だ。あーだこーだと、感じたことをぼんやりとはなしたり、「ニーチェって、あれですか?…?!」などと、よんだ本の感想を気ままにいったりしたことに、一本ビシッと、かんがえることの芯をとおしてくれる。

ほめすぎると、気もちわるがられるとおもうが、そんなことはおかまいなしだ。「誰かをほめたい」というのが、ぼくの基本的な性質だったりするのだ。これは余談。

その大兄の哲学への姿勢には、ぼくなどからは、とても「アマチュア精神」があると感じられる。ぼくは、これが、大兄への信用というか、「大兄としゃべることは、たのしい」という感覚につながっているのだとおもっている。

毎日、労働するということから、社会性を身につける訓練をしているなかで、その労働の場が、たまたま大学だったということで、研究職のかたがたと出会うことができて、とてもラッキーだったとおもう。

いま、加藤秀俊の『わが師 わが友』という自伝をよみはじめた。p30くらいから、思想の科学研究会に参加するようになったことについての話がでてきたところで、上のようなことをおもった。思想の科学研究会とは、鶴見俊輔とかがやっていた研究会で、ぼくが敬愛する梅棹忠夫も、寄稿するかたちだったかで、参加していた。

すこしながいが、同書から引用する。

「なによりもわたしにとっての大きな収穫は、『哲学』という、一見したところ近寄りがたい学門が、いたって身近なものになった、ということである。『哲学』というのは『かんがえかた』ということにほかならず、したがって、人間、誰でもが『哲学』をもっているはずなのである。なにも『哲学者』という専門学者だけが『哲学』を独占する筋合いのものではないので、大工さんには大工さんの哲学があり、農民には農民の哲学があってよろしい。~中略~『思想の科学研究会』は、そのことをわたしに教えてくれた。」(p31,32)

ここにある基本姿勢は、梅棹忠夫の「アマチュア思想家宣言」とおなじものだ。梅棹忠夫たちが共有していた精神を、この本からもまた、におうことができて、うれしい。

そして、ぼく自身も、こういう精神であったり、感覚であったりを、自分がいきる同時代人と共有できていることに、けっこうしあわせを感じている。