平成最後の華金の夜。お酒は、自由な着想をえるいとなみ。

人事のことがからんでくるから、懇親会的な、職場の人間とのお酒は、しだいにまずくなるのだ。

「あのひとは、ひとをみているんだろうな」っておもうから、「こっちもみていてやろう」と身がまえるので、よっぱらいきることができない。

人間模様を観察するたのしさはあるけれど、つねに意識は冷静なので、とにかくお酒がまずい。泥酔して、ふかくしずみこむことができないのだ。

お酒、というか、食事の、本来のたのしさは、参加者と自由にホラをふけるところにあるはずだ。あるがままの、自由な思考や感情をはたらかせることができるところに、お酒や食事のよさがあるのだろう。

そこに人事、正確にいうと、世間がはいると、お酒はまったく別種のものとなる。率直にいって、まずい。酒量だけはふえるが、よいはまわらず、しかし、翌朝ひどい頭痛がのこるような、悪酔いをするだけだ。

世間体でのむお酒は、とにかく、まずい。

世間に参加するたのしさはあるが、お酒はとにかく、まずい。

うまいお酒とは、つまり、おもいこみを破壊して、自由な着想をえるいとなみのことをいうのだ。世間体をとりつくろったようなお酒からは、なんにも独創的な着想はえられないのだ。

最後に脈絡なく夢をしるすけれど、ぼくは梅棹忠夫と「お酒」をたのしめる人間に、とにかくなりたいのだ。

そのためのとっかかりとして、hideを研究するのがおもしろいかもしれないなって、調子づいている平成最後の華金の夜なのである。