依存関係が転じて、個性化へのきっかけとなる可能性

ほんとうの意味でのおとなにならなければ、人類学なんて、とてもできないだろう、とおもっている。人類学をやる、やらないにかかわらず、とにかく、ほんとうの意味でのおとなに、はやくなりたい。これは、いまにはじまったことではなくて、むかしから、そういう気もちばかりが、いそがしく、体中をかけめぐっている。

それじゃあ、「ほんとうの意味でのおとな」って、なんだ?というと、それはよくわからない。ただ、司馬遼太郎梅棹忠夫という人物にあったときに、面とむかって、「ぼくはあなたがやっている学問を今後もやっていきたいです。」と、はっきりといえるようになることが、「ほんとうの意味でのおとな」が、あらわしている感じに、ちかい気がすると、なんとなくおもう。

hideは「自分は、対象物(ロックミュージック)に依存してしまうタイプの人間だったけど、その対象物によって、社会性を身につけていった。」というようなことをいっている。これは、あいまいな記憶をたよりながら、ぼくの解釈によるものなので、ちょっとズレたことをいっているかもしれないけれど、まあそうズレてはいないだろう。

なにがいいたいのかというと、対象物に依存しているようでは、ほんとうの意味でのおとなではないということだ。いつまでたっても、自分のことをおとなではないとおもってしまうのは、それはぼくが対象物(司馬遼太郎梅棹忠夫の思想)に依存しているだけでいて、そこから一歩すすんで、社会性を身につけるまでにいたっていないからだとおもうのだ。

この調子では、いつまでたっても、「司馬遼太郎がいっているから」とか、「梅棹忠夫がいっているのは」とか、そういうことしかできない。これでは、未来永劫、かれらとおなじ風景をみることはできないじゃないか。

着想の記録なので、まとまりなくおわる。

しかし、ぼくは、なにかに依存することは、そんなにわるいことではないとも、おもっている。なにかに依存して、それがなくてはやっていけないくらい、自我がとろけていって、それの一部になりはじめた、その瞬間に、天と地がうらがえるように、実は自我の方がわざと、とろけていって、そのなにかと同一化していたのだというかたちがありうるとおもうのだ。

なんというか、ある対象物に、とことん依存したところで、突如として自我がめざめて、ある対象物と自我とが、区別不可能なくらい密接になったような、そういう自己同一化のかたち、そういう個性化のかたちがあるような気がするのだ。