したくないことは、しない。
「したくないことはしない」ということを、これは大事なことばだと、竹内敏晴はいう。「『したくないことはしない』という自覚」をもち、「『それは嫌だ』といいきるという行動形態によって、築かれてくる自我」を、「マイナス型の自我」と名づけている。そして、この自我のありかたを、東洋的な、あるいは日本的な自我として、とらえている。
マイナスの反対の「プラス型の自我」とは、もちろん、西洋的な自我のことであり、これは「こういうことをしたい」というかたちであらわれ、「他者を支配し、操作してそれを自分のなかに同化していくもの」として、竹内はとらえている。
竹内は、マイナス型の自我の立場にたち、「自由というもののマイナス型に気がついてくるというプロセスがありうると思う」という。(以上、『「出会う」ということ』p207~209)
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ぼくのことをいうと、「したいことはなに?」とか、「目標はなに?」ときかれたとき、「したいことなんてない。なにもしたくない。もし50億円もあったら、毎日ダラダラと、ねてくらす。しかし、自分から50億円をかせぎたいとはおもわない。」というようなことばしか、でてこないのだ。相手の意図にこたえられるような、建設的なこたえを、はじめから、もっていないのだ。まさに、これはマイナス型の自我だとおもう。こういうのは、退学しそうな学生さんからも、たまにきく。
このような負の回転をしている思考や感情をもつ人間に、「自分のしたいことを、すきなことを、やろう」などという、まえむきで、建設的な、正の回転をしたことばをなげかけても、うまくいかないようにおもえる。ぼくは、数年まえまで、「なにか、したいことはないのか?」といわれたとき、みじめな気もちになったし、さがそうとして、あせり、なにもない自分に対して嫌気がさして、憂うつになっていった。
事実として、あるときをさかいに、竹内敏晴をしるまえから、ここ数年、ぼくは「したくないことはしない」という姿勢、「できないことはしない」という姿勢でやってきたが、これによって、主観的に「できる」とおもえることが、ふえてきた。いまだ、したいことなんて、あまりないが、しかし、なにか熱心にやっているという状態がある。これこそ、まさに、自我が、それもマイナス型の自我が確立されていっているということではないだろうか。
したいことがある、すきなことがあるというのが、なにも、すべてではないのだ。「したいこと」というのは、なかなか危険なことばだとおもう。「したくないことはしない」という自覚と姿勢をもつことでしか、行為にむすびつくような「すること」が、でてこない人間もいるのだ。
社会的に、いまだに「坂の上の雲」的な、正の回転をした虚構をおいもとめているところがあると、すこしおもうが、負の回転の虚構をもつ人間にとっては、とても息がしにくくて、しんどい社会なのではないかとおもう。
司馬遼太郎は『国家・宗教・日本人』のなかで、「日本のいわゆる発展は終わりで、あとはよき停滞、美しき停滞をできるかどうか。これを民族の能力をかけてやらなければいけないんです。」といった(p133)。また、梅棹忠夫は自分をさして、「明るいペシミストや。」とかたった(『梅棹忠夫語る』p207)。このふたつのことばが、以前からずっと、あたまにのこっていたのだが、竹内敏晴によって、つながった気がするのだ。このふたつは、マイナス型の自我のありようのことをいっているのではないか。
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「意識の負の回転から行為へ、そして、(マイナス型の)自我の確立へ」というながれが、やっぱりありうるのだ。「なにもしたくない」というのは、とてもネガティブな気がして、いやだったこともあったが、まったくネガティブなことではなかったのだ。積極的に、なにもしないというのは、成立するのだ。
「いやだ」とか、「やりたくない」とか、「やらない」という選択肢があるということが、ゆたかな社会のひとつの指標なんじゃないかとおもったりする。