落合博満さんに傾倒する理由。学校など集団にある不合理への抵抗。ようは、自分の納得をつらぬいて、いきている落合さんが、かっこいいんだ。

ほくは、なぜ落合博満さんに傾倒するのだろう。


そもそも、ぼくは野球がすきなのだ。


しかし、それだけでは、落合博満さんに傾倒する理由としては、ものたりない。自己理解をふかめるために、もうすこし、かんがえてみたい。



毎日、すこしずつでもよいから、練習しておれば、しだいに体力はついてきて、それにともなって、技術も習熟していく。これは、たしかなことだ。もちろん、ただしいかんがえかたで、やっているかどうかで、体力アップや技術の習熟具合やふかさは、かわってくるが。


手がいたかったり、足腰がよわくて、からだがブレてしまって、満足にふることができなかったバットを500回もふることができるようになったという経験的事実が、自分のなかで、おおきな根拠となって、うえのことを裏づけている。


このようなことをいまごろになって、わかったのは、すこしばかり残念だ。もっと昔に、手をつけておれば、もっとはやくに、この真実をしることができたのだ。「まあ、今後の人生に、教訓として、いかしていくことはできるさ」と、自分をなぐさめるしかない。


なぜもっと学校時代に、野球をやらなかったのだろう。いまの自分が、どんなレベルのスイングをできているのかは、わからない。しかし、コツコツと、つみかさてねいくことができる才能が、自分にあることをしってみると、中学生のころにでも、はじめておればよかったと、多少の後悔がある。きっと、どこかのタイミングで、そこそこやれるプレーヤーになったはずだとおもう。


やっぱり、どうかんがえても、学校がぼくをダメにしたのだとおもう。学校の体質、部活動の体質が、ぼくの可能性をうばったのだ。


ぼくは、どうしても、不合理であったり、不条理をもつ集団に参加することができない。また、集団の秩序をみだすつもりはないが、それとおなじつよさで、個人の個性を抑圧するありかたをみとめるつもりはない。自分自身が納得できないことに、むやみにしたがうことはできないのだ。


公立の中学校の野球部でありながら、午後7時8時まで拘束することは、度がすぎているだろうとおもう。標準服をもっているが、校則として、身なりがさだめられているわけではない公立高校であるにもかかわらず、頭髪は丸刈りで、服装は学ランを指定する、旧日本軍全盛時代のようなありかたをよしとしている野球部も、度がすぎているだろう。


まったくの不合理だ。こんなところで、個人の個性を発揮できるわけはないだろう。できたとしても、余程、精神的につよくあらなければならないだろうとおもう。ひとりっきりの、孤独で未成熟のティーンエイジャーには、不可能にちかいだろうとおもう。


ぼくは、ここのところで、落合博満さんに、したしみを感じているのだとおもう。落合さんは、高校時代に、実力がありながらも、先輩に暴力をふるわれる毎日に、嫌気がさして、野球をやめている。学校や野球部の不合理に、つぶされていたのだ。しかし、そこから、かれは奮起し、再起し、「オレ流」という個性を発揮し、集団の不合理や不条理とたたかい、かちぬいていく。ぼくは、かれのここに、尊敬の念をいだくのだ。


ようは、自分の納得をつらぬいて、いきている落合さんが、かっこいいんだ。


采配

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  • 作者:落合博満
  • 発売日: 2011/11/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)