「自殺というこの動作は、偉大な作品と同じく、心情の沈黙のなかで準備される。当人自身もそれを知らない。」、「熟考のすえ自殺をするということはまずほとんどない。なにが発作的行為を触発したのか、それを確かめることはほとんどつねにできない。」というのが、カミュの『シーシュポスの神話』(新潮文庫p12、13)にでてくる。
このことばの感じとしては、ぼくがまえにかいた文章が、なかなかちかい気がしたので、おどろいた。
こんなことをかくと、ぼくが変な死にかたをしたら、「あのひとはなやんでいたから…」とささやかれそうだ。
まあ、ささやかれるかどうかは、どっちでもよい。本題にもどる。
自殺のことをかんがえてみたくなったのだけれど、だからといって、いまそんなにおちこんでいるわけではないのだ。
いま、自分の精神が多少、頑強になったと実感している。だれかになにかをいわれたとき、以前なら動じていたことに、動じなくなったりしている。
という感じこそ、あるいは、予期せぬ自殺がおこりうる可能性をしめしている気もしないでもない。
この精神のつよさの裏に、どうも死がひそんでいるような感じがある。
なんというか、死ぬ気もないのに、いつのまにか、突然死んでしまいそうな。
これが生というものかもしれないともおもうが、変な感じだ。
もしかすると、こういうのが原初の人間の感覚にちかいのかもしれない?アニミズム的な、生も死も、そのへんにころがっているような。