Facebookに自伝をかく意義

いつもよくしてくれている先生から、顎関節症などの治療をこえて、「○○くんは、文章をかく方がよい。」と発破をかけられたことに、背中をおされて、こうして自分のことを文章にするようになった。

まずはFacebookに、自分のことをかくようになってから、2ヶ月くらいたったころ、小学生のときから、なかよしこよしの友人が、「○○くんみたいな人間は、自伝とか、かく方がよいとおもうよ。そういうひとをしっているけど、けっこうおもしろいよ。」と、旅のかえりの新幹線内で、酒によっぱらいながらも、熱のこもったことばをなげかけられた。はじめたばかりで、てれくさくって、「うん」としか、こたえなかった。

が、このあいだ、ちょうど1年後に、「Facebookとか、ブログに、自分のことを自伝的にかくようなことをしているよ。」と、かれにつたえた。「みしてや。」といわれたけれど、今度もまた、てれくさくって、「もうちょっとまって」とこたえたあと、かんだかい声でケラケラっとわらって、はぐらかした。かれは、ぼくのことをよくわかっている人間なので、「けど、そういうことをやっているときいて安心した。○○くんは、アウトプットが下手くそやから、このままどうなるのやろうと心配していた。」と、これまた、旅行さきで酒によっぱらいながら、いわれたことが、とてもうれしかった。あいかわらず、てれくさいけれど、そのうち、みせてみようとおもう。

ぼくが、やりたいことは、こういう「"人間"と"人間"とのやりとり」なのだ。文章をかくことは、そのきっかけにすぎないのだ。作家にでも、なれれば、うれしいけれど、いっこうに上達しない文章をみていると、前途多難だ。

もうひとつ、ぼくがやりたいことは、「"アマチュア"として、学問をたのしみたい」ということだ。これは、まえにかいたように、梅棹忠夫先生がしめしてくれた道だ。「アマチュア思想家宣言」には、いきかたの指針をあたえられたとおもっている。ぼくが人類学をやりたいというのは、つまり、このことを対外的にしめすための方便なのだ。だって、アフリカにいきたいなどと、これっぽっちも、いまはおもっていないのだもの。
hide-himuro.hateblo.jp

最後に、ちょっと空想をはたらかせて、おわろうとおもう。

ハリー・ポッターには、「憂いの篩」という記憶を保存・再生できるアイテムがある。いやな記憶とか、いまはちょっとかんがえたくない記憶などを魔法の杖ですいとりだして、その篩にいれて、一時保存しておいて、あとから、自由に再生したりするものだ。

Facebookに、自分のことをかくことは、けっこうこれにちかい気がする。ここに、おもいわずらっていたことなどを、"自伝的"に、かいてしまうと、けっこう頭のなかがスッキリするのだ。しかも、これのよさは、それを社会化できることだ。「憂いの篩」で、ハリー・ポッターダンブルドア校長の記憶をのぞきこんだのと、まるでおなじようではないか。

Facebookは、「とざされていながら、しかし、実際は、ほとんどひらかれている」という感じが、とてもよい。