新庄剛志の希望と閉塞感ただよう日本社会

新庄剛志と契約する球団があらわれない日本のプロ野球は、不甲斐ない。これほど甲斐性がないとは。これで、ますますプロ野球人気は停滞していくだろうとおもう。千載一遇のチャンスをみずからのがしたということを10年後くらいに、気づくんだろう。


チャレンジした人間をもりあげようとする機運がそだたないことが、残念だ。成熟しすぎたためなのか、ずいぶんと型にはまった社会になってしまった。オープン戦までに結果がでなければ契約解除とか、いろいろやりようはあっただろうに。


ここがアメリカ社会とのちがいで、アメリカのよさがうきぼりになるところだ。大リーグなら、柔軟な契約をやっていただろう。日本人が大リーグで活躍できなくなってきたのは、日本の野球に、ゆとりがなくなってきたためだ。新庄と契約しなかったことで、それがあきらかになった。


アメリカ讃歌したいわけではないので、アメリカのひどさがわかる本を紹介しておく。100年単位で苛烈な人種差別がおこなわれているのが、アメリカ社会の現実だ。


日本プロ野球よ、日本社会よ!
管理化をすすめてばかりおらず、人間をたいせつにしろ!
新庄剛志が、わたしたちにあたえてくれた希望をうけとめなくて、未来があるのだろうか!

2021年の我慢と2022年のチャレンジ、そして、2023年からのあたらしい人生。

22年に、おおきくジャンプするために、最後の助走のために来年はすごそうか。来年一年、自分をみがきあげて、22年は勝負をする。そして、23年に、ぼくは野球選手というあらたな一面をもって、これまでにない人生をスタートし、人間を探究する道をこころざす。梅棹忠夫たちがそだててきたことを継承する道を、自分をごまかさずに、誠実にあるく。


そのためには、ぼくは来年の8月ころには硬式球をにぎってきなくてはいけないし、試合の経験を10回、11回としていなければいけない。そして、肉体的には、運動神経も筋肉も、ドテドテとうごく、なんちゃって野球おじさんの域を脱して、高校球児のように、しなやかなバネをもっていなければならない。また、精神的には、勝負の世界のきびしさにたえうるだけの覚悟をもたなければならない。土俵上で、変化の技にたけているだけでなく、がっぷりよつの相撲をとれるだけの"格"を、その精神の柱にもたせなければならない。


まよっている暇はないので、すぐにきめた。まようくらいなら、せめるべきだ。自分の性格上。


来年は、八戸ノ里か、小坂のあたり、つまり司馬遼太郎のすんでいた土地で、ひとりでくらす。そういう一年にする。これは、やっぱりやってみたいことだ。司馬遼太郎が、根をはって、ぼんやりと妄想しながら、散歩したであろう小道を、ぼくもあるいてみたい。


来年やることがきまった。来年は、野球選手になるための練習と司馬遼太郎がいた土地でのひとりぐらしだ。


京都への移住は、そのあとだ。梅棹忠夫の足跡をたどるのは、そのあとだ。たのしみは、まだまだあるのだ。なんと贅沢な人生だろう。


それにしても、年々、つぎの年のテーマを意識するタイミングがはやくなってきている。よいことだ。

"自分"にとって最適なマインドフルネスの方法について

ソフトバンクホークス選手で、元メジャーリーガーのムネリンこと、川崎宗則さんが、マインドフルネスについて、動画でかたっています。

 


「悩みは放置!仕事も早く辞めろ!」心がラクになる川崎宗則(ムネリン)の教え

 

川崎宗則さんのマインドフルネスの方法は、お風呂にはいって、呼吸に集中することみたいです。

 

マインドフルネスは、基本的に「呼吸に集中する」ことがたいせつなのですが、呼吸だけに集中するということはなかなかむずかしいので、ぼくは「呼吸に集中できる"なにか"をしながら」という方法をもつことが、ベストなのだとかんがえています。

 

ぼくの場合は、「野球の練習とその一環としての筋トレ」なのだと気がつきました。

ちょうど昨日、このような日記をつけています。

 

「なんかやっぱり微妙にこころのチューニングがくるっているが、まあ、これまでどおり、集中して、筋トレと野球の練習をできているから、問題ないだろう。

なるほど、気がついたが、野球の練習とその一環としての筋トレは、ぼくにとってはマインドフルネスの最適な方法みたいだ。」

 

臨床心理士河合隼雄さんなどは、スポーツをすることをすすめていますが、「スポーツは自分の呼吸に集中できる手段」なのだと、ぼくは解釈しています。からだをつかって、呼吸に集中して、こころをととのえる。心身の統一です。

 

川崎宗則さんは、この動画のなかで、つぎのことをいっています。

「いつもつづけるカードよりも、やめれるカードを一枚もって、仕事をしてほしい。やめれるカードを一枚もっているだけで、ホントに自由に身体がうごく。思考がうごく。仕事も人間関係も、フワッて、また見方がかわる。」

 

この発想は、おそらくマインドフルネスの特訓によって、身についたことだと、おもいます。これについては、また次回かんがえてみたいとおもいます。

 

 

マインドフルネス瞑想入門

マインドフルネス瞑想入門

 

 

 

 

 

 

布袋寅泰の新アルバム『Soul to Soul』

ひさしぶりに布袋寅泰のアルバムをかった。『COME RAIN COME SHINE』以来だ。なんかかってみたい、と直感的におもった。さっそくきいてみて、「かってよかった」と、おもえたので、自分の直感はただしかったことが、ちょっとほこらしい。
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このアルバムでは、いろんな国のシンガーがボーカルやっているが、これがきめてだ。布袋の世界性を絶対に感じられるとおもったが、そのとおりだ。世界のなかのひとつとして、日本語ポピュラーミュージックが相対化されているところに、布袋の音楽のふかみや、ひろがりを感じた。


BGM的にも、すぐれているとおもうし、いつもの布袋のとおり、おどりだしたくなる感じもあるし、音楽のたのしさが素直に感じられる、よいアルバムだとおもう。二週目だが、もっとしがめば、まだまだちがう味がするとおもう。


楽曲の感想を2つ、3つ。


イエモン吉井和哉のボーカルがかっこよい。こんなに、あまい歌声をしているのか。


「Savage Sun」という曲が、とにかくかっこよい。英語詞の曲で、ボーカルはGLIM SPANKYというユニットの松尾レミという女性だ。これもまた、めちゃくちゃかっこよい。すこしハスキーなのだけれど、ちからづよい声で、いかしてる。


コブクロ黒田俊介が、アルバムの表題曲でもある「Soul to Soul」をうたっている。ぼくはコブクロずきなので、やっぱりかっこよいとおもう。黒田俊介は、こういう歌を絶対にうたえるとおもっていたから、ファンとして、けっこうれしい。表題曲をプロデュースするなんて、布袋のコブクロへの傾倒はなんなんだろうかと、すこしおもう。


Soul to Soul(通常盤)

Soul to Soul(通常盤)

  • アーティスト:布袋寅泰
  • 発売日: 2020/11/25
  • メディア: CD

ひとは、表と裏の二面性があって、あたりまえ。

ひとには表と裏がある。ぼくはそれをかくしたいとはおもわない。かくしているひとがおおいから、社会が分断されているのだとさえおもう。


表が正義で、裏が悪であるかは、わからない。しかし、この世のなかでは、"だれかの価値基準"で、表は善玉あつかいされ、裏は悪玉あつかいされている。この価値基準から、ぼくは飛躍したい。


人間が古来から、コツコツとつみかさねてきた"ただしさ"は、まちがいなくあるとおもう。しかし、それは、無批判にうけいれるものではないはずだ。まずは、たとえ"まちがっている"ことだとしても、「俺は、ただしい。俺は俺さ。」というところから、ただしさははじまるのだとおもう。「俺は、ただしい」が、まちがっていたら、その都度修正していく。このプロセスのなかに、ほんとうのただしさがあるはずだ。


このかんがえを検証していくために、ぼくはFacebookTwitterなど、snsをつかっている。インターネット世界に、自己を存在させるといういとなみは、もはやきってもきれない時代になっていく。そうであるならば、積極的に、つかっていくより、よい案はない。


リアルとインターネットで、表と裏の自己を表現していく。これをつみかさねていく。このさきには、たぶん、肉体と精神が、あるいは物体と情報が、統合された世界があるはずだ。


それには、実名でやることがベストだとおもう。匿名で、裏か、表かを表現していくと、しらないうちに、べつの自我がそだっていくようにおもう。これでは、統合ではなく、分断にむかっていく。司馬遼太郎ですら、福田定一司馬遼太郎とを統合しきれていないような感じがあるのだから、平凡なわれわれは、不用意にアカウント名をもって、インターネット世界で自我をふくらませていくことは危険だろう。

選挙という二者択一のイベントで、おおきな変化をきめてしまうことへの違和感。【大阪都構想】

選挙という二者択一の方法で、変化することって、なんか違和感がある。それがベストな方法だとされているから、まあ、しかたがないとあきらめるが。


変化というのは、性急には、おとずれない。もっとじわじわと、おとずれてくるものである。ちいさな行為をコツコツとつみかさねていき、それらが蓄積されていき、いつのまにか、爆発的におとずれるものなのだとおもう。


もし大阪都構想に賛成しているひとが、なんとなくある閉塞感をうちやぶるために、という"おもい"がきめてで、投票しているのだとしたら、それは悪手だとおもう。


自分の身のまわりの生活のちいさな変化のつみかさねのさきに、おおきな変化はやってくるのである。大阪をかえたいのなら、まずは自分発信で、ご近所づきあいをやってみることである。それをやってはじめて、大阪都構想なる大変化をきめる選挙に参加できる資格があたえられるのだと、ぼくはおもっている。


政治をかたるまえに、まずは市民たれ。そうおもう。

コンプレックスと鬱

素振りを熱心にして、筋肉痛になるまでノックをうけていても、自分のなかで、野球に一途であるとはいいきれないものがある。友だちは草野球にさそってくれるが、それを心底よろこんでおらず、すこしわずらわしさのような、なにかひっかかりを感じている自分がいる。これはむかしからの性向で、なにごとにも熱中できなかったり、ふかくふかくほりさげていくことができないのである。


ひとつのことをしていても、その行為のなかに、何層もの目的や意義をもたせようとする。そして、ときに、その層は地殻変動をおこし、主たる目的が従になり、従たる目的が主とかわる。はじめにはじめたころとは、おおきくことなる脇道に、自分の意志で選択し決断し、すすんでいくのである。


こういう自分であることに、いまでは、さほどにはおもいなやむことはないが、すこしまえまでは、つよいコンプレックスだった。


このコンプレックスから解放されたのは、梅棹忠夫さんとの出会いである。ひとつのことをふかくつきつめていく「つらぬく論理」に対し、いろいろなことをひろくつきつめていくという「つらねる論理」があるという思想にふれて、自分の熱中できなさを肯定できるようになったのである。


しかし、おそらくこのコンプレックスから、まったく解放されたわけではないような気がする。そういう悪寒があった。


いまは、すごくあかるく、ポジティブなモードになっているから、なんてことはないが、自分には、もう一方で、くらく、ペシミスティックなところもあるというのが、自分のリアルのはずである。ついこのあいだまで、そういう自分が支配的だったのである。


角幡唯介さんの著書『旅人の表現術』に、梅棹忠夫さんの話がでてきた。梅棹さんですら、本格的な登山家にはコンプレックスがあったのではないかという話であるが、そのために、最晩年に、すこし鬱っぽい状態になったのではないか?とおもわれることがあったという。


ふと、自分自身が、ふかく自省していることに気がついた。


とにもかくにも、梅棹忠夫さんは、ぼくにとっては、やっぱり人生のひとつの指針のようである。あらためて、そのようにおもう。


旅人の表現術 (集英社文庫)

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山をたのしむ (ヤマケイ文庫)

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