コンプレックスと鬱

素振りを熱心にして、筋肉痛になるまでノックをうけていても、自分のなかで、野球に一途であるとはいいきれないものがある。友だちは草野球にさそってくれるが、それを心底よろこんでおらず、すこしわずらわしさのような、なにかひっかかりを感じている自分がいる。これはむかしからの性向で、なにごとにも熱中できなかったり、ふかくふかくほりさげていくことができないのである。


ひとつのことをしていても、その行為のなかに、何層もの目的や意義をもたせようとする。そして、ときに、その層は地殻変動をおこし、主たる目的が従になり、従たる目的が主とかわる。はじめにはじめたころとは、おおきくことなる脇道に、自分の意志で選択し決断し、すすんでいくのである。


こういう自分であることに、いまでは、さほどにはおもいなやむことはないが、すこしまえまでは、つよいコンプレックスだった。


このコンプレックスから解放されたのは、梅棹忠夫さんとの出会いである。ひとつのことをふかくつきつめていく「つらぬく論理」に対し、いろいろなことをひろくつきつめていくという「つらねる論理」があるという思想にふれて、自分の熱中できなさを肯定できるようになったのである。


しかし、おそらくこのコンプレックスから、まったく解放されたわけではないような気がする。そういう悪寒があった。


いまは、すごくあかるく、ポジティブなモードになっているから、なんてことはないが、自分には、もう一方で、くらく、ペシミスティックなところもあるというのが、自分のリアルのはずである。ついこのあいだまで、そういう自分が支配的だったのである。


角幡唯介さんの著書『旅人の表現術』に、梅棹忠夫さんの話がでてきた。梅棹さんですら、本格的な登山家にはコンプレックスがあったのではないかという話であるが、そのために、最晩年に、すこし鬱っぽい状態になったのではないか?とおもわれることがあったという。


ふと、自分自身が、ふかく自省していることに気がついた。


とにもかくにも、梅棹忠夫さんは、ぼくにとっては、やっぱり人生のひとつの指針のようである。あらためて、そのようにおもう。


旅人の表現術 (集英社文庫)

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山をたのしむ (ヤマケイ文庫)

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