経済的にくるしい女性学生とぼくとのかかわりあい。

経済的にくるしい学生の修学指導を、ひとりだけだが担当している。

21歳の女性学生だ。

学費の納付がなかなか困難で、期日までにやや不足している状況だときいた。

ぼくは「大丈夫なのか?」ときいた。
どう配慮すればいいのか、もはやわからない。

彼女は「ギリギリいけそう。あと10万円弱くらい。生活がくるしくはなるけれど。最後は、給料のよいバイトを適当にさがして、のりきる。」といった。

ぼくはここで、「そういうのなら、がんばって」といったが、それではおわることができなかった。

偽善的だとおもうし、職務をこえているのも理解しているが、「もしほんとうにきびしいなら、すこしなら、お金をかすよ。個人的な動機です。」とつたえた。

あまいかんがえかもしれない。
ただ、これは、自分としては、ひいてはいけないところだとおもったのだ。

世のなか、きれいごとではいきていけない。

それも事実だろうけれど、「がんばっていたら、だれかが手をさしのべてくれる」という希望を、それが、たとえ、あまい、きれいごとだとしても、もつことができるのが、人生をいきるちからになるのではないかと、ぼくはしんじたいのだ。

なぜ、ぼくは彼女のことに、こんなにもこだわるのだろうか。

彼女の目には、現実の冷厳さだけがつよくうつっていて、あまい観測すらもつことができずにいるようで、ニヒルな感じを身にまとっているように、ぼくにはうつる。
彼女はあまり、自分について、おおくをかたらない。
ぼくが信用されていないだけかもしれないのだけど。

なにか自分とかさねあわせる部分もあれば、自分よりも若年にもかかわらず、きびしい現実をいきているところに、なにかせめてたすけになりたいという感じもあったり。

自分の不安定さのあらわれともおもうけれど、同時に、なにか普遍的なものにちかづいている気もする。

気がかりなのは、「給料のよいバイトを適当にさがす」ということだ。

選択肢のひとつに、性風俗はあるのだろうか。

学校では、ここにふみこむことはやりにくい。
大学でさえだ。

学校の根底にある思想には、「夜のバイトは悪」という固定的な価値体系がある。

「お金がないから夜のバイトをしています」ということは、ほとんど通用しなくて、「すぐにやめて、奨学金で、なんとかしましょう」と定型回答をするしかないのだ。

ぼくは、ここにこそ、きれいごとの、あまい世界があるとおもうのだけど。

リアルのない、偽善的な世界だと、すごく矛盾を感じている。

とりあえず、ボチボチ就業時刻なので、ここでまとまりなくおえる。