性風俗ではたらく女子学生~貧困の再生産に一役かってしまう大学という教育機関~

坂爪真吾とか、中村淳彦の本にも、かかれているが、性風俗が最後のセーフティーネットになっているというのは、本当のところだろうとおもう。性風俗だけにしぼらずに、もうすこしひろくとらえて、お酒をのむ店とかもふくめて、性産業という方がよいかもしれない。

中村淳彦の『女子大生風俗嬢』という、そのまんまなタイトルの本によると、学費をはらえないから、性風俗ではたらいているという女子学生が、たくさんいるということだが、たぶん、ぼくがつとめている大学にも、それなりにいるのだろう。

ぼくはいま、学費収納関係の業務を比較的まじめにやっているが、もし「奨学金をかりていても、それは生活費にあてるしかないので、学費を納付することができません。そもそもバイト漬けで、授業にも出席できていませんが、それでも大学を卒業したいので、性風俗でバイトします。」といわれたら、どうするだろう。

こういう学生に、「性風俗で、はたらかない方がよいから、大学をやめなさい」とは、ぼくはいえないなあ。逆に、「それだけ大学で勉強して、卒業したいなら、性風俗ではたらきなさい」ともいえない。おそらく、教育機関に所属している人間としては、後者の方はタブーにちかいのではないだろうかとおもう。

しかし、こういう学生は、そもそも経済的にきびしいのだし、さらに、すでに奨学金という多額の借金をせおっているので、たぶん、大学をやめても、いずれ性風俗というセーフティーネットを利用することになるだろうともおもう。性産業は、セーフティーネットでもあるが、一気に借金を返済できるチャンスもあるわけだし、可能性としてはたかいだろう。

とすると、後者の方、つまり、「それだけ大学で勉強して、卒業したいなら、性風俗ではたらきなさい」という方が、人の道のような気がする。ただし、リスク管理の方法や最も安全にはたらける性産業を一緒にしらべたりして、サポートしなければならないとおもうが。

余談だが、そもそも、ぼくは性風俗を悪だとはおもっていないし、むしろ、自己表現の場として、性風俗はとても価値ある場ですら、あるとおもっている。性欲が暴力にむすびつかないように、気をつけて、うまくやりさえすれば、人間的な出会いの場にすることができるとおもっている。

話をもどすが、こんなケースで、「せめて、大学は卒業する方がよい」などということも、盲目的に大学に価値をみとめているようで、すごく自己欺瞞的だともおもう。

結局、「あなたの人生なのだから、最後は自分できめなさい」という自己責任論とか、「これ以上は、わたしの職務ではない」みたいな形式主義とかが、おとしどころになって、自分の無力さをはぐらかして、良心のいたみとか、そういうのはなかったことにして、雲隠れしてしまうのがオチなのだろうか。

なんか、この不誠実な感じが、すごく嫌だ。不快だ。

また、貧困が貧困を再生産することに、大学が一役かっているようにおもえて、これに当事者として参加することは、個人的に、けっこう不快だ。

「とりたてて能力のない人は、とりあえず大学にいくと、初任給も生涯賃金も、高卒よりもよいから、進学する方がただしい」みたいな風潮とかが、いきすぎていやしないだろうか。もはや、誰でも大学に進学できる時代なのに、「大学に進学したナイスな自分」みたいな幻想を、うっかり共有してしまっている気もする。

ぼくは、ほとんどのひとにとって、大学は借金をしてまで、いく価値があるところではないとおもう。大学に所属している(していた)という肩書のために、数百万円も浪費するのは、バカげている。社会全体が、「大卒」というのに、おもい価値(幻想)をみとめているから、おおくのひとが、無理をして(無理をしてというのは、自分で自分に暗示をかけて、ごまかすということもふくめて)、しかたがなく大学に進学しているというのが、実情なんじゃないのだろうか。

ぼくが、まとめられる話ではないから、まとまらずにおわる。

実は、こういう問題に、職場で、いま直面していて、どのように学生とむきあえばよいのか、なかなかむずかしくて、かんがえこんでいるのだ。

女子大生風俗嬢 若者貧困大国・日本のリアル (朝日新書)

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性風俗のいびつな現場 (ちくま新書)

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