ものの本をよんでいるかぎり、ヨーロッパ人、アメリカ人の自分さがしは、中心にむかってやってこそ、うまくいくという手法を採用すべきなのは理解できる。
「わたしって、なんだろう?」というのは、自己という中心を想定して、そこになにごとがあるのかをさがしもとめるくりかえしによって、つかんでいく。
ヨーロッパ人らの自我は、「わたしは〜だ」という主張がまずあり、相手とのちがいをあきらかにする。
自己の縁には、はじめから枠がある。城壁がそびえたっている。
われわれ日本にうまれそだった人間は、それとはややちがう。
中心ははじめから、もっている。中心になにがあるかをすでにしっている。
中心には、「わたし」があるのだ。
しかし、日本の人間も、自分さがしをする。
いったいなにをさがしているのか。
さがすべきなのは、中心にある「わたし」が、おさまる枠なのではないか。
われわれのこころの縁には、城壁はない。
われわれが自分をしるときには、どうやら、「わたしはここまでだ」という線をひく感覚があるような気がする。
そして、その線のうえに、あるひとはしめ縄をはり、また、あるひとは鳥居を設ける。ひとによっては、座敷をつくって、まわりより、一段たかくするかもしれない。
城壁ほどあらあらしいものはつくらないが、なにかしら自分と他者とのちがいがわかるようなものをえたときに、自分さがしが完了するほどの納得がえられるような気がする。
なにをかいているのかわからないが、いきおいだけはかきしるすことができていれば、うれしい。
とにかく、ヨーロッパ流のやりかたでは、われわれ日本の人間は、自己がなにものであるのかをつかみきれないとおもうのだ。
一度、無限に「わたし」をひろげてみて、「ここまでは他者と通じあえる。しかし、ここからは他者とは通じあえない。」というところまで、いくことが、方法としては、ひとつ有効な気がする。
ここに、ぼくは「信じる」ということの萌芽をみとめたし、孤独のなかみもかいまみたし、いろいろ可能性を感じている。
ただ、注意すべきは、まじめに、これをやりすぎると、hideのように、無意識にのみこまれ、死の世界へみちびかれてしまうことだろう。
こころの問題にふみこむときは、洋の東西や時代をとわず、つねに、死の危険はとなりあわせのようにおもう。