音読とか、朗読とか、そういうことをすると、途中で舌がまわらなくなって、かむ。
これはよくありがちなことだとおもう。
しかし、カラオケで歌をうたうときは、ほとんどのひとぎかまない。
このちがいはなんだろう。
ぼくなりの解釈では、音読とか、朗読をするとき、たいていのひとが、一本調子でよむからだ。
まず、音読や朗読にも、音感やリズム感が必要であることをしっていない。
なぜしっていないのかというと、学校の国語教育で、そういう訓練をうけていないからだ。
詩そのものにかぎらず、評論であっても、朗読するとき、そこにはひとつの詩的空間、というよりも、創造的空間が、本来はうまれる。
「わたしの声」が、「あなたのこころ」に、はたらきかける。
そこに創造的空間がうまれる。
しかし、学校の国語教育では、そういう感じがない。
なぜなら、あらゆる文章を「情報」として、とらえる立場だからだ。
黒板に、ある解釈を羅列する。たとえ、その解釈が複数、羅列されていても、それは情報の立場から、はなれていない。
もちろん、情報という立場もたいせつだ。
しかし、そればかりではいけない。
話はややそれるが、たぶん国語教師になるようなひとは、文学青年、文学女子だったのだろう。
かれらには、まるで、他者にひらかれるという姿勢がないのではないか。
とざされた世界で、独自の解釈によいしれていたのではないか。
つまり、かれらにとっての国語の授業とは、自分の解釈を情報としてパッケージングして、そのまま提示するということなのかもしれない。