自殺についておもうこと。死と美意識あるいは美学。

自殺をするひとは、美意識がたかい人間、もしくは美学をもっている人間なのだと、ちょっとおもった。

つらく、過酷な人生に絶望し、その絶望のさきに、キラリとひかる一筋の光明が、つまり自殺なのだとおもう。

死とは、まず、創造的だ。
自然死、老衰、病死、自死、どんな死であろうが、死の尊厳はゆらぐことはない。

自殺とは、みずからの「意志」で、死を創造することだが、そこに、自殺をするひとの美意識、美学をぼくは感じる。

先ごろ、なくなった西部邁もそうだし、三島由紀夫の死など、美意識のかたまりのようだ。

ふるくは乃木希典の殉死がある。

新装版 殉死 (文春文庫)

新装版 殉死 (文春文庫)

いま、ぼくは『吃音』という本をよんでいる。
途中までしかよんでいないが、ここにでてくる吃音の人々には、それぞれに「吃音をなおすこと(なくすこと)」について、完璧主義の傾向をやや感じる。吃音に絶望し、ひきこもり、自殺に失敗したひともでてくるが、ぼくはそこに、かれの美意識をみてとった。

吃音: 伝えられないもどかしさ

吃音: 伝えられないもどかしさ

死の創造性に言及したので、裏がえしとして、生の創造性についても、言及したいが、またつぎのブログにしようとおもう。

ただ、ひとことだけいうと、死が美意識に直結するとするなら、生は泥くささに直結するようにおもった。

これは『吃音』にでてくる人々のなかで、吃音に絶望し、自殺をしたが、死にきれず、しかし、その後、吃音の克服にたちあがり、生にしがみついているかたの姿をしって、そう感じた。