なんで、ひとは、こころを病むのか。こころが病むのは、自立のはじまり。

「なんで、いきづらさがあって、こころが病むんだろう」という問いについて、こたえとなる理屈がみつかった気がする。ことわっておくが、これは、日本社会にいきる、わたしたちについての話だ。世界のほかの国々のことは、しらない。

ひとが、こころを病むとき、それは、たぶん、自立しようとするエネルギーが、こころにうまれたときなのだ。なぜ、自立のエネルギーがうまれたときに、病むのかというと、「自立したくない。まもられて、気らくにいきていたい」というようなエネルギーが、おなじくらいのつよさで抵抗してきて、反発しあうふたつのエネルギーの渦に、自我がのみこまれてしまうからだ。

このように、ひとが自立しようとしたとき、自分のなかにいる"もうひとりの自分"が、自立をはばむ。

その"もうひとりの自分"は、往々にして、社会通念などに、つよい影響をうけている。同調圧力にはじまり、自分の生すら他人まかせの無責任。

うまくない屁理屈は、ここまでにして、ぼくが感じる、いきづらさの理屈をかこうとおもう。


ぼくのいきづらさの根は、パターナリズムから脱出して、自立する過程のなかにありそうだ。そんな気がした。

日本社会にはびこるパターナリズムがすごく嫌なのだけど、しかしながら、それは自分のなかにも、しっかりと根づいてしまっている。ここに、自分を信用することができない問題がうまれるのだろうし、いつまでも自立できない葛藤をかかえることにもなるのだとおもう。この宙ぶらりんさは、日本的あまえだともおもうし。

自己更正プログラムとしては、まずは、自立的な人間関係のなかに、自分をおく努力をして、その環境に自分をならしていくこと。そして、自立的な社会が、自分にとって、あたりまえのものとなったとき、自分自身も脱パターナリズムをして、真に自立的ないきかたをする。もちろん、自立的な人間関係を構築していく過程で、自立的ないきかたを、すこしずつではあるが、していくことになるのだけど。

とすると、いまの職場は、おもいっきりパターナリズムな感じがあるので、まあまあ身のふりかたを意識して、関係をつくっていかなければ、それにのみこまれてしまうので、注意する必要があるとおもう。

パターナリズムパターナリズムと急にいいだしたのは、村上陽一郎の『科学の現在を問う』をよんでいて、でてきたからだ。情報社会の項では、梅棹忠夫さんをひっぱってきているので、信用できると、個人的にはそこで判断した。

ところで、ぼくとしては、日本社会は、河合隼雄のいう母性原理のうえに、このパターナリズムがのっかっているから、ややこしいのだとおもっている。

なにかあったら、母親になきついて、すべてを正当化しようとするような、乳しゃぶりのあまえが、同調圧力をうむ。その同調圧力のなかにあって、おなじように母親のおっぱいをすっている父親が、「わしのルール上、おまえはただしい」と、朱印状をあたえる。内輪だけで通用する茶番劇を延々やっているような感じ。

べつにパターナリズムも母性原理のあまえも、ダメだとはおもっていないし、そもそもダメだというほど、わかっていない。ただ、直観的に、バランスがわるいとみている。だから、そのへんのことをみんなで意識して、対話なり議論なりをして、理解をふかめていく方がよいとはおもっている。なぜなら、これらのことについて、対話し、議論するという行為そのものが、自立のための第一歩だとかんがえているからだ。

以上。

↓参考になる本↓

科学の現在を問う (講談社現代新書)

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母性社会日本の病理 (講談社+α文庫)

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