「おもいこみ」のなかに、いきなければ、自分をたもつことができないというくるしさ。

冷静にがんがえると、インターネットに、こんな感じで、自分について、ことばをかきつらねているのは、キモい。もちろん、なかには、キモくないものもあるだろうと、多少の自信はあるが、キモいものは、キモい。われながら、そうおもう。

こんな羞恥プレイみたいなことは、もともとやっていなかったことなのだから、すぐにでも、やめたって、よいのである。そもそも、こんなことをやらなくても、25歳くらいまでは、なんとか、いきてきたのである。

しかし、いまとなっては、これをやめることは、できない。やめてしまうと、なにかが、こわれてしまいそうな気がしていて、そこに、こわさがあるのである。

ところで、「こんなこと」とは、なんぞやというと、「社会性がない」だとか、「はたらくことができない」だとか、そういうたぐいのことである。はじらいもなく、そういうことをよくかいているだろう。

自分の生活の実際をいうと、毎日、ふつうに、はたらいている。ズルやすみもしたことがないし、有給も、ほとんど消化したことがないくらいである。だから、「社会に、でることができない」などということに、不安になったりして、過度に気にする必要はないのである。実体としては、十分すぎるほど、社会的にいきているのである。

しかし、これについても、「自分には社会性がない」という"おもいこみ"をすてることはできない。社会性がないと、「感じいりながら、気にしすぎる」ことをつづけなければ、自分が、くずれてしまいそうで、こわいのである。

自分の現状のことをふりかえってみて、どうも、自分で自分をいためつけているような気もする。「自分には社会性がないし、躁鬱的な気分のあらさがある。そして、世間が苦手で、ひとと、まともに、すごしていくことに抵抗がある。自分の本性は、アウトサイダーなのである。」などと、あえて、ネガティブに自己を規定して、その"おもいこみ"のなかで、くるしみながらも、自己をたもっているような感じがある。

この"おもいこみ"がうまれる根っこには、いったい、なにがあるのだろうか。あるいは、根っこに、病魔がすくっているようでもある。

もう一度いうが、毎日、きまった時間に、職場にいって、しっかりはたらいているのである。十分に、社会に参加しているのである。もう、なにもかんがえずに、だまって、毎日をすごしていけば、よいではないか。どんな人間だって、毎日、なにかしらの不安やくるしみをかかえていきているのだから、自分もそのなかのひとりなのであるとみとめたらどうだろう。だれかとおなじように、日々のなかに、くるしみや、よろこびを感じながら、いきていけばよいではないか。そして、週末には、友人とお酒でものんで、たのしく、わらえるだけで、よいではないか。

しかしながら、そうはおもうが、ぼくは、こんな毎日をすごすことはできない。気がくるってしまいそうな不安があって、いつか、どこかで、精神が崩壊してしまいそうな、こわさがある。自分のそういう"おもいこみ"を、容易には、すてることができないのである。