河下水希の『あねどきっ』をよみおわった。全3巻。
- 作者: 河下水希
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2012/10/12
- メディア: Kindle版
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「すき」って気もちをもつことは、やっぱりたいせつなんだとおもった。
「あのひとのことが、すき…」だとおもって、すきだという気もちを告白しようとおもっても、いざ目のまえに、あのひとがあらわれると、「すき」とは、つたえられなくて。
時間はまつことをしらなくて、無情にも、ながれていく。
ひとは、そのとき、「タイミングをのがした…」とおもい、「これは、運命ではなかったということだ…」と、自分にウソをついて、あきらめる。
「すきです」とつたえることのこわさから、のがれるために。
じゃあ、いったい、そのこわさって、なんだろう。
「気もちはうれしいけれど、わたしは、あなたの気もちに、こたえることができないです」と、ことわられることが、こわいのだろうか。
それとも、自分が、ほんとうに、すきなのかどうかが、うたがわしくて、自分でも自分の気もちを信じられないことが、こわいのだろうか。
とにかく、「だれかをすき」だという気もちは、明日をいきるために必須の成分なのだとおもうけれど、それは、「自分で自分にウソをつくこと」と、おなじような成分でできているようにおもう。
なにかを「すき」だと、おもいこむことでしか、人間はいきていくことはできなくて、そのおもいこみは、「信じる」ほどのつよさをもっているものではなく、はかなくて、もろい「ウソ」なのだと、うすぼんやりと、しっている。
だから、人間は、「ほんものの、すき」が、わからない。
しかし、人間は、それをこえなければならない。
その気もちが、「ほんとうに、すき」であるとき、こころの声を耳をかたむければ、おのずから、それが「ほんものの、すき」であると直観できるはずなのである。
人間は、自分をいつわっては、いきていくことはできない。だから、人間は、だれかをすきになったとき、正直に、「すきだ」という必要があるのだとおもう。