河下水希の『あねどきっ』をよんで。好きって、なんだ。

河下水希の『あねどきっ』をよみおわった。全3巻。

「すき」って気もちをもつことは、やっぱりたいせつなんだとおもった。

「あのひとのことが、すき…」だとおもって、すきだという気もちを告白しようとおもっても、いざ目のまえに、あのひとがあらわれると、「すき」とは、つたえられなくて。

時間はまつことをしらなくて、無情にも、ながれていく。

ひとは、そのとき、「タイミングをのがした…」とおもい、「これは、運命ではなかったということだ…」と、自分にウソをついて、あきらめる。

「すきです」とつたえることのこわさから、のがれるために。

じゃあ、いったい、そのこわさって、なんだろう。

「気もちはうれしいけれど、わたしは、あなたの気もちに、こたえることができないです」と、ことわられることが、こわいのだろうか。

それとも、自分が、ほんとうに、すきなのかどうかが、うたがわしくて、自分でも自分の気もちを信じられないことが、こわいのだろうか。

とにかく、「だれかをすき」だという気もちは、明日をいきるために必須の成分なのだとおもうけれど、それは、「自分で自分にウソをつくこと」と、おなじような成分でできているようにおもう。

なにかを「すき」だと、おもいこむことでしか、人間はいきていくことはできなくて、そのおもいこみは、「信じる」ほどのつよさをもっているものではなく、はかなくて、もろい「ウソ」なのだと、うすぼんやりと、しっている。

だから、人間は、「ほんものの、すき」が、わからない。

しかし、人間は、それをこえなければならない。

その気もちが、「ほんとうに、すき」であるとき、こころの声を耳をかたむければ、おのずから、それが「ほんものの、すき」であると直観できるはずなのである。

人間は、自分をいつわっては、いきていくことはできない。だから、人間は、だれかをすきになったとき、正直に、「すきだ」という必要があるのだとおもう。