生レバーをたべて下痢になって、かんがえた「人生と病気」のこと。
あいかわらず、おなかに不快感がある。便意はひっきりなしという状況ではなくなったが、かるい下痢状態だ。何度か平熱にまでさがったが、いま現在微熱もつづいている。倦怠感はない。
過去に三度、食中毒になった。すべて鶏肉をたべたときで、いずれも体温は39.5度をこえ、下痢が一晩中つづいた。そのうち一度だけ、嘔吐もあった。悪寒があるなか、トイレにこもらざるをえない状況は、拷問のようだった。
今回はそれとくらべると全然ましなのだが、ながい。症状がなかなか改善されない。過去三度は、二日目までつづくことはなかった。今回と過去三度とのちがいは、はじめから軽傷であり、点滴をうっていないところだ。だから、回復までに時間がかかっているのだとおもっているが、はたして。
食中毒と、きめてかかっているが、それはたしかなのだろうか。医者は新型コロナウイルスではないだろうといっていたし、自分の感触的にもそうではないとおもうが、こればっかりはほんとうのところはわからない。PCR検査をうけてはいないから、状況証拠でしかない。しかし、病気なんてものは、はじめは状況証拠にたよるのが常道のようにもおもう。
去年の12/30、31と今年の1/3に数名と飲食店で会食し、お酒をのんだ。1/5にほかの客がいない串かつ屋のカウンター席で、ひとりでお酒をのんだ。それで、1/8に焼肉会食をした。それから1/11のお昼ころに、下痢がはじまった。会食したひとに、コロナのうたがいがありそうで、体調をくずしたひとがいることはきいていないし、潜伏期間のタイミング的にもはずれている。食中毒のタイミング的には、食後二日後くらいであり、ジャストだ。
今回、11ヶ月ぶりに、おおきく体調をくずしてみて、やまいのなかでの自分をはじめて冷静にみつめることができている気がする。なにものに、からだがむしばまれているのかわからないという不安や恐怖を感じながら、同時にそれを客観的に、動じずにながめている自分がいる。
病気のこわさは、ふたつほどあるように、今回おもった。ひとつは、からだの不調によるくるしみ。これは、おなかがずっといたかったり、ねれなかったり、はきけがするんだから、実際にしんどい。もうひとつは、まわりの人間からのくるしみだ。その病気をまわりは理解してくれないんじゃないか??という不安が、実はけっこうしんどいんじゃないか。病気になって、からだがしんどいときに、だれもそれを理解してくれないような不安をかかえてしまうことは、なによりもこわいという気がした。心身がよわっているときに、「病気にかかった人間は悪だ」という目線をむけられると、はねかえすちからもでてこないんじゃないだろうか。
できるかぎり健康でいたいが、人間はいつかしぬので、かならずどこかで、病気になる。病気のくるしみには、いつかかならず、うけいれなければならない瞬間がくる。それが生なのだとおもう。