悲観、悲観、悲観。

学校という、おかしな場と制度にしばられているなかで、結婚し、家庭をもち、避妊もせずに、セックスをして、子どもをつくって、というような行為を、よくするなあというのが、一生かかってもとくことができない謎のような気がしている。

よく、そんなことをして、責任をもっているとか、欺瞞にみちたことをいえるなあとおもう。結婚し、家庭をもち、子をなすなんてことは、すべて、エゴじゃないか。まともに、子がそだったとしても、それはすべて結果であるだけじゃないか。

自分の子どもを学校という地獄に、ほうりこまなければならないなんておもうと、上のような行為はできないけどなあ。

最近、悲観のなかにあった、あかるさが、酒をのむと、きえてしまう。精神的に、おちこんでいるわけでも、病んでいるという状態でもなく、ただただ悲観的になる感じだ。

気をうしなうまで、お酒をのんで、そのままいなくなってしまいたい。しかし、気をうしなうまで、お酒をのむことができないたちの人間だから、こうして、悲観的になるんだろうな。

まなぶということだけをきりとれば、人間のピュアなところがうきあがるし、とても自由なのだけど、学校という枠におとしこんだ瞬間、人間のにごった、きたないところがうきでてくるから、ほんとに、こまる。

まなぶということだけ、やっていれば、人間はピュアなまま成長していくのに、学校というよごれた時空をよこぎらざるをえないから、人間は余計な傷をおって、ダメになっていくんだ。