エロとアートと教育について(主に7/14と7/13の日記)

体調の回復と、それにともなう精神的な安定が、ようやくおとずれてきました。精神的な安定をささえてくれた方々のおかげで、なんというか、ようやくトンネルが開通したような感じです。陰に陽に、ささえてくれたひとには、感謝しても、しきれません。

今回は、本当に、ふいに、体調をマジでくずしたので、コントロールできなくて、途方にくれていました。しかし、自分としては、ひとにたよることができたのが、せめてもの成長だとおもいますし、その身勝手な要求に、こたえてくれた方々が、いてくれたことに、本当に感謝しています。

昨日、「不安定なときも、調節せずに、きてくたら、いいんやで」と、そして、「がんばらなくていいだよ」と、いってくださったことが、本当に、うれしかったです。

精神的な問題と身体的な問題との境界が、なんとなくわかった気がしています。心身は密接にかかわっていて、身体の調子をくずせば、こころはコントロールできなくなるのです。反対に、こころの調子をくずせば、身体もわるくなるのでしょう。

そういうことがあると、納得できましたものですから、あともうすこしで、本当に、あともうすこしで、ひらいてしまった玉手箱の魔法を、とりあえず解除して、すこしばかり、歳をとってしまったけれども、「あのときから」、再出発できる気がしています。

ところで、昨日は、「創造」あるいは、「クリエイト」ということに関して、アート(芸術)とエロ(性)との関係性について、きいてきました。

ぼくは、教育に関しても、自己表現、そして、自己実現のためには、性と芸術を、タブーなしに、教育の基本に位置づけることが必要だと、かんがえています。常日ごろ、ぼんやりと、そんなことをかんがえています。

今日は教育関係の仕事につく同世代の友だちと、酒をのむことになりましたので、そのことについて、しゃべりました。

現代社会では、「やってはいけないこと」と「マジで表現すらもしてはいけないこと」との境界が、あいまいな気がしています。

ぼくはAV(アダルトビデオ)にも、教育的価値が、山のようにあるとかんがえているので、そういうものを教育の現場から、きりすてては、いけないとおもっています。声にだして、誰かにつたえるような場をもたないので、この場で、そんなことをいっていますが。

プラトニックな愛もあれば、「ゆがんだ」、そして、「いびつな」、フェティシズムな愛もあるのが、多様な人間社会だと、おもっています。性のことが、わかりやすいとおもうので、とりあげています。

氷室京介は「shake the face」で、「何がいったい、まともだと、いうんだい?」とうたっています。

学校という組織体は、「ひとひとりのこころの感度」に、本当に、不感症だとおもいますので、そいつをどうにかしたいとおもっています。

学校というか、「教育」という、いびつなワードを一度破壊して、再構築したいというのが、ぼくの欲求です。

身体が元気になってきたので、ひさしぶりに、お酒をよくのみました。おやすみなさい。