胡蝶の夢日記 行為と妄想をかきのこしていくところ

心身の問題や民族学に興味あり。「自分のこと」を言語で表現することでみえてくる自己実現について、かんがえながら、ブログをかいています。社会性って、なんだろう?どうしたら、社会に参加できるのだろう。

ナラティブによる自浄作用のために、安心し、決心がにぶってしまった昨日の今日。

今朝は、すごくぐっすり、ねていた。あけがたに、おそらく、トイレにいったのだが、それが夢のような気がするほど、意識がとんでいた。いつもは、一度、おきてしまったら、ねられないので、これは、めずらしい。たぶん、つかれているのだろう。

目ざめが、多少、爽快だったので、家をでるまでは、気分がよかった。

しかし、すぐに、いらついた。

自転車を両手放し運転し、右折してくる高校生に、はねられかけて、その後、交差点で、自転車にのりながらスマホをさわっているひとが目のまえをよこぎるし、地下鉄の階段で、タバコを吸っている非常識な人間とすれちがうし、散々なことがつづいた。

この世界は、いかれた人間がおおいと、おもわざるをえないほど、不快だった。

こんなふうに、無性にイライラするのは、たぶん、人間に関心をもちすぎてるいるからだろうと、おもいなおして、いらだった気分をおちつかせた。

出勤後は、あまり、なにもかんがえないようにして、目のまえにある仕事をかたづけることに集中した。

集中したのはよいが、どうも、副鼻腔の調子が、ちょっとわるいみたいで、後鼻漏がひどくて、咳がとまらなかったのが、つらかった。

ちょっと気をぬいて、集中がとぎれると、「真理は、いたい方角にある。その方角をむいて、死ぬ以外に、なにができよう」という鶴見俊輔のことばが、頭をよぎった。あれだけ、「ここで、はたらきたくない。たすけてくれ。」と病んでいたのに、ふつうに、はたらいていて、「もういいや、もうすこし、ここで、がんばろう」と、おもいなおしはじめている自分が、信じられなかった。「いたい方角」がどっちなのか、皆目わからないが、どうも自分は、いたくない方へ、むかおうとしているように、おもわれた。

ナラティブによって、治癒されることを、自浄作用といったのだが、自浄作用によって、もたらされた安定が、こんな不誠実な自分をうむのなら、ことばをぐっとこらえて、限界まで、たえしのんで、破滅にむかう方が、到達したい自己実現の道なのではないかと、おもった。

2、3日まえは、この「いたみ」が、創造的退行であることをいのっていたが、自浄作用によって、安定がもたらされた途端に、その「いたみ」をわすれているようでは、今後も、自己実現は達成されることはないのではないかとおもう。

あるいは、ナラティブによる自浄作用があるということを自覚した、この状態が、自己実現にむかう、あたらしい局面なのかもしれないことに、希望をたくすしかない。

そんなことを、気をぬいた瞬間に、ぼんやりかんがえていたら、なんだか、すこし、バカバカしくなってきた。なぜ、こんなことばかり、かんがえなければ、ならないのだろうか。なぜ、こんな、意味不明に、いきなければならないのだろうか。

午後になって、「全部、正直に、いおう。」という決心を相談したい、信頼にたる上司が、コーヒーをのんで、すこし休憩していた。それをみた瞬間、「ええい、サイコロをふらにゃ、なんにもわからへん!」と直感的におもい、ちかづいて、はなしかけた。

「相談をしたいことがあります。建設的、発展的な相談をしたいとおもっています。たすけていただければとおもっています。一生懸命、はたらきたいとおもっていますので。よろしくおねがいいたします。」

「よっしゃ、わかった。ちかいうち。」と、こたえてくれた。

ありがたかったが、自分の二枚舌なところや、無自覚なところを直視させられた気になって、やりきれなかった。

「一生懸命、はたらきたい」と、この口からでてきたことばは、ほんものなのか。「はたらきたくない」と、文字であらわしていることばは、ほんものなのか。

それから、退勤時刻の前後2時間ほどは、ひさしぶりに、すこしやる気を感じながら、「かんがえる仕事」に、集中して、とりくむことができた。今日、それをできて、うれしかったが、明日のことは、わからない。明日になると、また、だるくなっているかもしれないので、期待はしない。

結局、今日は、かえりの電車でも、ずっと、「いたい方角」のことをかんがえていた。今日は、ずっとだ。自分は、「いたい方角」をむこうとはするが、その方角をとらえた瞬間に、目をそむけたがる。そういう「よわさ」をもった人間なのだ。その「よわさ」が、自分をウソつきにする。

そのウソのひとつが、やさしさなのだ。「いつでも、やさしさをよわさとわらわれて、よわさをやさしさに、すりかえてきたけど」と、28歳、29歳の氷室京介がANGELで、はじめて、うたったということをおもいだす。もし、ぼくに、やさしさがあるとするなら、それは、自己欺瞞のやさしさなのだ。

もし、このような逡巡が、「いたみ」なのだとしたら、多少ながらも、それとむきあうことができていることが、せめてもの、すくいだ。

最後に、今日も、はしった。
4.8km、28分。1km6分弱のペースだが、5kmくらいなら、苦にならずに、はしれるようになってきた。最近は、とにかく、はしっている時間が、ここちよい。なぜなら、はしっているときは、なにもかんがえなくてもよいからだ。ことばから、自由になれることが、気もちよい。

さて、そろそろ、ねよう。おやすみなさい。

hide-himuro.hateblo.jp