病的に"思いこみが激しい"人間について。

鶴見俊輔から、引用する。孫引きなので、本旨から、ずれているかもしれないが。

ぼくの病的なところは、まさにつぎのような感覚が根にあるようにおもう。

なにも、鶴見俊輔とおなじ問いを、もっているのだといいたいわけではない。

こんなことを問う器ではないのに、もってしまっていることのくるしさをいいたいのである。

 自分一人が生きていて、あとの人々は全部、舞台の袖のところで消える、という図柄は、いくら押しだしても、くりかえし、いつかはわたしの頭のうしろに入りこんで住みつづける、押しだすことのむずかしい思いちがいだ。この思いちがいとともに生きる他はあるまい。
 思いちがいを恐れずに、毎日新しく思いちがいを世界にこじいれてゆく他ない。ひどい思いちがいは、わたしをいたい目にあわせる。そのいたさにたえて、自分の思いちがいにしがみつくか、すてるかは、わたしの自由な選択だ。
 いたい目にあうごとに、わたしは、自分のえりくびをつかまれて、真理のほうに向けられる。真理は、痛い方角にある。しかし、真理は、方角としてしか、わたしにはあたえられない。思いちがいに思いちがいをついで、その方角に向うのだ。思いちがいのなかで、思いちがいをすてることでその方角を向いて死ぬ以外に、何ができよう。
(退行計画)

ぼくのような人間がもつ、おもいこみのはげしさは、鶴見俊輔のような才能などではなく、単なる病気なのだとおもう。このようなところからは、なにもうまれないだろう。おこりうることは、おもいこみによって、とりみだし、右往左往し、あげくのはては、自己弁護を、自分をたもつ唯一の方法だとおもいこむことである。そして、ちかづくものをとおざけ、否定するのである。

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