リストカットというイビツな生の感じかた。

リストカットをすることでしか、自分の生を感じることができないっていうのは、やっぱりイビツだとおもう。いきなり断定してしまったが、それはダメだとおもったので、あわてて、つけたさないといけない。ぼくはリストカットなんかをするひとは、あれは自分がいきているという実感をえたいがためにやっているとかんがえている。

リストカット跡をみてしまったものだから、ちょっといろいろかんがえてしまった。

そんなに生を感じたいのなら、目のまえにいる人間に、たとえば異性などに、「すきだ」と、ひとこと、しっかりとつたえれば、それで生を感じることはできる。あるいは、親に「死にたい」などと、ハッキリというのも、よいかもしれない。

とにかく、生を感じたいなら、感情を他者に面とむかって、つたえることが、もっともてっとりばやい方法だ。感情というとややこしい気もするので、もっとやわらかく、気もちとおきかえよう。

リストカットでは、いきていることを実感することはできない。

リストカットで、生を感じるというのは、ぼくはそこには「からだはいきている」というところの認識に、錯覚したおもいこみがあるとおもう。その錯覚があるために、むやみに、からだをきりきざむのだ。

まず、たしかに、からだはいきている。しかし、意識がなんにもしなくても、からだは勝手にいきている。これは、ほとんど自動的だといってよいだろう。これが前提と、いや、すべてだといってよいほど、重要だとおもう。

リストカットなどによって、身をきれば、なまあたたかい血が、ドクドクとあふれでてくるだろうし、それとともに、つよいいたみも感じるだろう。

しかし、それだけのことだ。

身をきり、血がながれでる「いたみ」など、自動的なものなのだ。
ドクドクと血があふれでてくるものだから、自分がいきているような気になるのだろうが、それは錯覚だ。

それは「からだが、いきている」のであって、「自分がいきている」のではないのだ。

おそらく、リストカットをしている人間は、ドクドクとながれてくる自分の血を冷静に、ながめているだろうと予想しているが、どうだろう。

リストカットをやめられないのは、このあたりにあるようにおもう。うまくことばにしきれないので、今日はここまでだ。

自分の生、つまり、「自分がいま、いきている」という実感は、心身の統合がなされていなければ、えられないはずだ。

今回いいたいことは、つぎのとおり。

内容にかかわらず、人間は「告白」をしたとき、心臓がたかなり、こころがいたむ。これこそが、いきているというあかしなのだとおもう。

だから、あるいは、リストカットをしているような人間は、「わたしの腕をみろ!」と、きりきざまれた腕を他者につきだしたときに、ようやく、いきている実感がするのではないだろうか。

そこで、はじめて、リストカットという行為が実をむすぶのだとおもう。

手術などをうけるとわかるとおもうけれど、人間はけっこう「身をきること」には、平気でいられる。簡単に、自分を対象化してしまえるし、モノ化してしまえる。人間は根っこのところで、自分のからだを「勝手にうごいているモノ」くらいにしかおもっていないところがあるような気がするので、そこにいくら生をもとめても、実感はできないとおもうのだ。