宗教の自己欺瞞、自己満足なオナニーの罠

カウンターにすわっている客と客とを、店主の主観的満足で、むすびつけるのは、その店の演出家として、下の下の手段だろう。

店主の役割は、その店に参加する全員のしあわせを提案することであり、たったひとりでも、興をそがれるひとをうんではいけないのだ。

ぶしつけに、カウンターの客と客をつなげる店主のあさはかさよ。バカめ。




宗教的人間でも、政治的人間でもない人間だけが、宗教の話とか、政治の話ができるのだ。

あっ、と、感嘆したいほど、よくわかった。

ぼくなんかは、非宗教的人間で、非政治的人間なのだけど、うらがえしたら、おなじ土俵で、たたかっている人間なので、そういう話をしてしまったら、ダメなのだ。まちがいなくケンカになる。

ぼくは、そこの土俵にたってはいけない。身をほろぼす。だって、自分の宗教観を、さも社会の通念みたいに、はなす人間を横にしたら、鼻をあかしたい気になるんだもの。こんなのに、かかずらわったら、そのうち、腹をさされてしまう。

宗教とか、政治の話をしていいのは、それらに対して、心底、無関心で、むきにならないひとだけだとおもった。



宗教を議論の遡上にのせることと、信仰にかかわるものとして、議論することとは、まったく別物だ。

それをわけて、処世できるのが、たぶん、民族学者の、フィールドワーカーの力量なのだと、そんな気がした。

修練をつまなければ、それはできない。

ぼくは、まだ、それはできない。

がっつり、自分の信仰(妄想、虚構、フィクション)を悦にいって、かたりつづけるひとの話を、ぼくはきくことはできない。

民族学をこころざそうとおもうなら、これを無心でできなければ、ならない気がする。

梅棹忠夫先生の『モゴール族探検記』での、イスラム教徒との宗教に関する議論など、まさにそういうことだとおもう。

ぼくだったら、相手のムスリムの方の信仰を否定しつくして、腹をさされていたとおもう。もうすこし、おとなにならなければならない。