大学職員の仕事をやめようか、まよっていて、上司に相談したアレコレ

最近、いまつとめている大学の仕事をやめようと、ことあるごとに、口にしはじめている。はじめは、したしい友人・知人たちだけに、はなしていたが、職場の上司・先輩にも、人をえらんでだが、すでにそういう気もちがあることをつたえはじめている。

なぜ、やめたがっているのか、核心がパッとしないので、理由をさぐってみたい。理由は、「他にできることをやりたい」ということと、「できないことはやりたくない」ということだろうか。

今日はちょっと、できないことについてだけ、ことばにしたい。なぜ、蕁麻疹がでそうなくらい、嫌になりはじめたのだろう、というのを解明したいというのがある。

まず、直属の上司の仕事のふりかたに不満がある。自分が課をまとめあげられなくて、10年以上、つみのこしてきた仕事を「世代交代」みたいな正義の旗をかかげて、大義名分をえた気になって、上意下達的に、「その仕事は、おまえがやらなあかんねん」みたいに、いってくる。

どこに書類があるのか、から、さがしはじめなければならないような仕事から、とりかからなければならない。ぼくは、いまや、この大学の会計課の仕事に、「一から、やってやろう!」という熱意をもつことは、できない気もちになっているので、バカバカしさが、まず頭にうかんでくる。自己暗示をかけて、だますこともできない。

人の上にたつ人間の役割は、部下の意思をしっかりしることだとおもうし、そのために、ヒヤリングなどをおこなわなければいけないとおもうのだが、そういうことを手をぬいて、やらずに、正義の御旗をふりかざすのは、ダメだろといいたいのだ。

こういう組織、上司のもとで、ぼくはこれ以上の熱意をもって、はたらくことはできない。できないから、でていくことも、かんがえはじめている。

もうひとつ、というか、これが核心かもしれないが、「学校には、社会性はない」というのが、わかりはじめたから、ぼくは、ここではたらくことが、嫌になりはじめたのかもしれない。3年間、学校という現場を、参与的に、ながめてみたが、「学校を卒業して、学校に働き口をもとめて、かえってくる人々のおおくは、社会性が、全然ない」という特徴があるようにおもう。

それで、こういうことを他部署ながら、もっとも信頼している上司に相談したのが、先週の8月7日水曜日だった。前日の18時すぎに、職場のメールをつかって、「相談したいことがあるので、時間をつくってください」とおねがいしたのだが、翌日すぐに、「今日、時間があるなら、酒でも、のみにいこう」と声をかけてくれた。善はいそげの精神ということだ。

お盆休暇があけるまでに、彼から、つたえられたことを整理したい。とりあえず、こころにひびいたことばを列挙してみようか。

「キミが『議論は、あそび』だというのは、よくわかるけど、つぎに直属の上司と話をするときは、『発展的な議論』をできるように、こころがけるとよいとおもうで。彼は、議論の人やからな。」

「キミは、いつもボクをお酒の場にさそってくれるけど、そうやって、人をあつめて、しゃべるのが、すきなんやろ?得意とか、苦手とかのまえに、それが『すきなのかどうか』が、何かをやろうとする人にとっては、まずはたいせつやとおもうで。」

「キミのような人が、現場にでずに、事務職をしているというのは、ボクはもったいないとはおもう。一般的にいうと、環境にめぐまれていないサラリーマンやな。」

「キミの仕事観というのは、まず人生観があって、その下に、労働観というか、そういうのがあるように、話をきいていて、おもった。人生に根ざしていない労働は、仕事にならへんわけやな。」

「キミは、組織というものをすごくすきな人間やな」

「この大学という組織のことをすきなのだったら、これから、あともう3年、つとめてみるのもありかもしれない。30歳をこえたときに、みえること、できることもあるから。出世とか、そういうことをかんがえる気がないみたいやし、今日ボクに話をしてくれたことを、できることから、すこしずつでも、やっていけばいいんとちがうか。ボクは、キミといっしょに、はたらきたいし、応援するよ。」