hide(X JAPAN HIDE)とニーチェからかんがえる「破壊衝動とその表現方法」について

この記事のあと、もうひとつ、他者の価値観を否定して、破壊したいという衝動にかられた文章を投下する。

ぼくは、自分のなかにある、この衝動を、正直、もてあましている。ぼく自身の価値基準をみとめるために、そして、まもるために、ぼくの価値基準をみとめないひとがいると、そのひとのそれを破壊したくなるのだ。

昨日、友人の哲学の研究者とお酒をのんだ。17時から、お酒をのみはじめて、おわったのは翌日0時なので、計7時間ものみつづけて、かたらいあっていたことになる。よく集中力がつづくと、ちょっとびっくりしている。

そのお酒の場で、おわり際に、ひとりのクリスチャンがあらわれた。みた感じ70歳すぎくらいの女性だ。カウンターのとなりの席にすわったのだが、お店の大将の強引すぎる、下手くそなはからいで、すこし話をすることになった。

そのクリスチャンは、ずっと自分の信仰の対象である聖書のことをかたっていた。ぼくは、お店の大将の強引さに、不快感をおぼえ、多少興ざめしてしまっていたのと、そのクリスチャンの話ぶりも、ちょっと独善的な感じもあったので、話半分にきいていた。

そのひとは、「隣人愛はたいせつだ」などとも、かたっていたが、ぼくには、どうにも独善的なところがあると感じられたので、そのひとには、隣人愛をわかっているようには、とてもおもえなかった。話半分にきいていたので、なにをいっていたのか、あまりおぼえていないが、自分が信仰するキリスト教の価値だけをしきりにたたえていて、「仏教徒が修行したりするのは、あんなんやっても意味ない」などと、けなしていたのが印象にのこっている。

ぼくは、たいへん不快な気になっていたが、ずっとしらんふりをして、ききながしていた。しかし、最後に、わるい性癖がでた。

そのひとの身勝手な、まるでオナニーのような隣人愛理解を破壊したいという衝動をおさえられなくなってしまった。場がしらけてしまうとおもったので、こらえようとおもったが、ちょっと勝負をしかけてみたくなってきてしまったので、となりにいる哲学者に、「いまから爆弾をなげてみて、いいでしょうか?」と、何度か確認したうえで、結局投下してしまった。

「あなたに隣人愛があることは、よくわかりました。ぼくは、あなたのその隣人愛をたよって、いまから、ぼくの邪悪なものをぶつけてみたい気になっています。何度も、あなたの頬をぶつことになるとおもいますが、それでもあなたは、反対側の頬をさしだしつづけてくれますか?」と、ぼくは入念に、まえおきをして、相手が大丈夫だと同意するのを確認した。そして、「ぼくは無宗教なので、キリスト教という価値体系はまったく無意味なものだとおもうし、だから、ぼくにとっては、どれだけお題目をならべても、それは便器にこびりついたカスほどの価値もないんです。」などと、すごく嫌な感じのことばを相手になげつけた。

案の定、相手は顔色をかえ、「あなたのそういうかんがえは、まったくダメだ。」と、つよい口調で、かえしてきた。

あげくのはてには、そのひとは、ぼくを悪魔であるかのようにあつかい、「もっと、しっかり聖書をよんで、教会に足をはこんで、おがんで、身をきよめてください。そうすることで、あなたの悪魔も浄化され、すくわれるでしょう。」みたいなながれになった。

まったく隣人愛をもっていない人間に、悪魔みたいにあつかわれたことも不快だし、相手は自身に自己欺瞞があることを自覚しておらず、独善的だったことも、すごく不快だった。このクリスチャンは、自分に対して、ウソをついていて、どこにも正直さがないにもかかわらず、真実とか、正義をふりかざして、マウントポジションをとっていたことが、やっぱり一番不快だった。「わたしはあなたのいっていることをみとめることができない」とはっきりいえば、まだいいのに、「うんうん、わかっているよ」と、ごまかして、ウソをついているところが、また腹だたしかった。

こうなることは、わかっていながら、あえてやったことだし、ケンカに発展させたくなかったので、さっさと刀をしまって、「いい話をきけましたー!」などと、適当にいって、相手をたてて、話をうちきったが、それに相手は気をよくしたのか、名前をきいてきて、さらに握手をもとめてきた。ぼくは、夜のお店で、名前をきかれたとき、適当に偽名をなのることに躊躇するような人間なのに、このときは、なんのためらいもなく「山田といいます。また、おあいしたときは、どうぞよろしくです。」と、なめらかにウソをついていたのが、不思議な感じがして、おもしろかった。

ぼくが、とにかく、破壊したいのは、「あるモノサシの外にあって、はかることができないものをみとめない」という狭隘な価値観をもった人間の意識であり、社会の通念なのだとおもう。

そこで、いま、「破壊の方法」をどうするかということをかんがえている。このクリスチャンに対して、やったことは、やっぱりあまりよい方法ではないと、あらためて、そうおもうので、これからは、もっと柔軟にできる方法をもちたい。

相手が信仰している対象をメタメタにきりさくということは、たとえ、相手のその信仰が、ぼくの信仰をふみにじっていたとしても、やってはいけないことのようにおもえたのだ。後味のわるさが、すこしのこっている。昨日は、クリスチャンの話をききつづけていたときから、そういうふうにおもいはじめていたので、だから、ずっと、しらんふりをして、やりすごしていたのだが、この感覚が本当のことかどうかをたしかめてみたくなって、いっしょにいた哲学者にあまえて、爆弾を投下したのだった。

このながい無駄話をおえるために、最後は、hideのことにふれなければならない。そもそも、これが主題だったりする。

hideもなにかを破壊してきた人間だ。

hideは、なにを破壊してきたのか。
hideは、音楽にある無数のジャンルの壁を破壊し、とりのぞいた。hideのことをしらべると、彼の功績のもっともおおきなものは、これだという評価をおおく目にする。

hideは、この破壊を「なんの価値も破壊せずに、否定せずに、すべて肯定し、みとめる」という方法で、やっていた。hideは、結果的に、なにかを破壊していたが、彼がやったことは、「すべてを肯定する」ということだけだったのだ。このことに、今日、気がついて、すごくおもしろいとおもった。

このことに関しては、コリン・ウィルソンの『アウトサイダー』で、ニーチェについての項でふれていたので、最後にすこし引用して、おわる。

「『サンクタス・ヤヌアリウス』の最初の警句でニーチェは自分の立場を要約しているー

まだわたしは生き、まだ考えている。わたしはまだ生きねばならぬ、まだ考えねばならぬのだから、今後わたしは常にただ肯定する者でありたい。

それ以後、これがニーチェの哲学の基調となり、彼はたえまなく探究し、自分以前の西洋哲学者を一人のこらず阿呆とみなしてしりぞけた。~中略~人間の道は、すなわち肯定の道、讚美の道である。~中略~人間のなしうる最も偉大な行為は、『あえて讚美する』こと、つまり、『永遠の否定』の最悪の形態に気づきながらも、超人的な努力によってそれを消化し、そのうえで人生を肯定的なものと見ることにほかならぬ。」(コリン・ウィルソン著『アウトサイダー』、p227,228)

2019/8/4 23時