"わたし"中心の生き方って、決して、「ちかづくものを傷つける」ような自己中心的なありかたではないとおもうのだけど。
①「"だれか"のためにあることで、"わたし"の関係がひろがっていくありかた」
②「"わたし"のためにあることで、"だれか"との関係がひろがっていくありかた」
このふたつのちがいについて、かんがえている。①は、19世紀おわりごろから20世紀なかごろくらいにあった、大衆的な感覚のような気がする。そして、②は、20世紀なかごろ以降から現代までの大衆的な感覚といえるだろうか。
①については、やっぱり目線のさきには、「戦争をおこなった国家」があるようにおもう。"だれか"とは、つまり国家である。
これに関して、司馬遼太郎は、「志をたてるわかもの」をよくえがいており、その志のたてかたとして、まさに①のように、「"だれか"のためにあること」で、どのように志をたてるかということをテーマにしてきた。ここでいえるのは、"だれか"については、決して「国家」や「特定の組織」ではなかったということだ。では、「だれのためだ?」となると、司馬は「天下のため」、「人類のため」という風呂敷を基本的には、ひろげていたのだとおもう。
司馬遼太郎はやっぱり、20世紀のひとなので、①「"だれか"のためにあることで、"わたし"の関係がひろがっていくありかた」というもののみかたが、根底にあったようにおもえる。
ぼくは、司馬遼太郎のことが、すきなので、かれのいわんとしていることのニュアンスはわかっているつもりだが、どうしても、①のようなことは、皮膚感覚的に、わからないし、最後のところで、共感することができないようにおもえる。司馬遼太郎の限界は、たぶん、この①をこえることができなかったところにある。
司馬は、小説としては最後の作品である『韃靼疾風録』で、はじめて、天下のためではなく、「ひとりの愛する女性のため」というテーマで、わかものの物語をかいた。しかし、やっぱり「だれかのために」から出発せざるをえなかった。これは、ぼくの想像だが、司馬遼太郎ほどの人間であるから、おそらく、「おれはもう、わかもののこころがわからんようになった。"わたし"のためからはじまる主人公は、かくことができない。」と、さとったのではないだろうか。晩年の司馬の文章には、くらい影がちらついていたのも、このあたりに鍵があるようにおもえる。
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ともかく、ぼくが司馬遼太郎を皮膚感覚のところで、わかることができないというズレがあるのは、やっぱり、ぼくが21世紀の人間であり、②「"わたし"のためにあることで、"だれか"との関係がひろがっていくありかた」が、根底にあるからだろうか。
時代の感覚として、現代の関係性のありかたは、おそらく②のようなありかたなのだとおもう。梅棹忠夫が、『二十一世紀の人類像―民族問題をかんがえる 』という本で、「21世紀は、民族の時代である」と論じている。多種多様な民族が、おのおのの独自性や独立性を主張しはじめていくだろうと、未来を予測している。ぼくはこれを21世紀をすこしすぎた2015年ころによんで、「そのとおりだ!」と、えらく納得したのだが、ここでのぼくの自分なりの納得のしかたとして、「つまり、21世紀は、"わたし"の時代なのだ」という解釈があった。
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戦後にうまれた"わたし"たちは、どれだけあがいても、みんな、②「"わたし"のためにあることで、"だれか"との関係がひろがっていくありかた」が、からだの奥底にあるのだという、人間への理解が、ぼくにはある。
"わたし"たちは、「だれかのために」とはいいつつも、腹の底では、「わたしのために」というのがあって、それが発想や活動のためのエネルギーの源泉なのだとおもうのだ。
ぼくは、この腹の底にある"わたし"が、なにものなのかをしっかり自覚して、理解することが、21世紀をいきる人間のおおきな仕事なのだとおもっているし、このことに信念をもって、いきようと、いま、すこしずつ努力をしているまっただなかなのだ。