文章をかく技術~気もちと論理のバランス~

おもったことや気もちのながれを、ある程度の論理のながれにのせて、文章にすることはできる。これについては、けっこう得意な方だともおもっているし、やっていて、たのしい。泥酔していながら、ある程度意味の通じる文章をかけるというのは、けっこうすごい能力だとおもっている。日常では、なんにも役にたたないけど、たぶんダイイングメッセージとか、辞世の句を発する瞬間には、相当なちからを発揮する気がする。

だけど、気もちのながれがない状態で、論理のながれだけにたよって、文章をくみたてることができない。不得意で、苦手だという意識がつよくて、だからなのか、あまりたのしくもない。

こういう傾向のことを、よくいえば、「才能にたよっている」といえるような気もする。むろん、この場合、才能とは、相対的なものとして、とらえている。

ぼくは、天才的な才能へのあこがれがつよくあるのが率直なところで、だから、「徒然に筆がすすむ」というような極致が、めざしているところだったりする。司馬遼太郎のように、湯水のように、ことばがあふれでてくるような人間になれることを夢みている。だから、そういう方向性で、すこしだけ努力している。

それはまあよい。

ところが、だ。
バカで、おろかで、いくじなしのぼくは、たとえば、司馬遼太郎のような天才的な文章家でさえも、そのきらびやかな活動のうらで、泥くさい努力をしていたという事実を直視しようとしない。司馬遼太郎が、どれだけ、論理のはこびのことをかんがえていたかを、司馬遼太郎記念館に展示されていたノートをみて、しっているにもかかわらず、司馬遼太郎の天才性にだけ、あこがれをもっているのだ。

この文章も、気もちのながれで、かいているので、そろそろ、気もちのエネルギーがなくなってきたので、あとがつづかなくなってきた。

こんな調子だから、いくら文章で表現しても、結局、どこにも到達することができず、宙ぶらりんで、射精したあとの高揚感と虚無感がいりまじったような、後味のわるさだけが、のこってしまうのだろう。

ぼくが、研究者などと話がちょっと通じるのは(実際に、たしかに、多少は通じているが)、つまりは、ぼくが一次資料を提供するモルモットだからなのだ。これは他者が、ぼくを一次資料としてみているかどうかの問題ではなくて、ぼく自身が、自分のことをそのように規定していることが、おおきく左右しているということをつけくわえておく。ぼくが、二次資料的に、話を展開すると、途端に、ぎこちない場になってしまうのは、そのためだ。

案の定、論理でまとめあげるまえに、気もちがきれてきたので、この文章をまとまりのない一次資料のまま、おえることになった。以上。