たとえ荒唐無稽でも、ポジティブで、おおきな夢をえがく意識をつよくもつことで、ひとは飛躍できる。

意外と、あっさりと草野球デビューすることがきまった。最近、キャッチボールをやったり、たがいにバッティングピッチャーをやって打撃の練習をやったりしている友人が所属しているチームに、参加させてもらえることになったのである。野球をはじめて、6ヶ月、7ヶ月ほどで、声をかけてもらうことができた。草野球といえども、相手から声をかけてもらえたというのは、おおきな一歩である。


つくづく、「プロ野球選手をめざしている」などと、法螺をふきながら、まじめに努力してきて、よかったとおもう。すこしずつであるが、あゆみをとめることなく、着実に、なにかにちかづいていっていることを実感している。


自分で、自分に、限界という枠をはめてはいけない。これは、ある種、信仰にちかいくらい、つよくおもっていることである。人間は、気をぬくとすぐに、保守的になるものであるから、自他によって、いつのまにか、自分の意識は、かってに限界をきめる癖がついてしまう。それを阻止するために、たとえ荒唐無稽なことであろうが、おおきな自分をえがく意識をつねに、つよくもたなければならないのである。


ぼくの夢は、梅棹忠夫司馬遼太郎のような知の巨人とよばれるひとびとと、仕事をすることである。そうなるために、一番の道は、落合博満流で、野球の練習をつむことで、自分なりの論を確立することである。落合流は、とおまわりかもしれないが、いまもっとも注力できることであるから、躊躇せずに、とりくむことが、自分にとって、ただしい道なのだと、確信している。


この夢に、一歩でも、ちかづきたいという気もちが、最近、とてもつよくなってきた。べつに、むくわれなくてもよいが、なげやりになるような仕事には、時間をさきたくない。いまの仕事は、それ自体はおもしろいが、組織のありかたが、肌にあわないので、なげやりになりたい気もちが、でてくる。これがいやである。


心機一転、部署がかわったが、やっぱりどうにもむずかしいみたいだ。飛躍する準備をしたいのだが、ここでは、その準備ができない。この職場では、荒唐無稽な、おおきな自分をえがくことができない。これが、一番ダメだ。


なにか、あたらしいことにチャレンジしたい。